日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年4月12・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

阿仏房尼御前御返事

『諸法実相抄』 (御書・六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし 行学たへなば仏法はあるべからず 我もいたし人をも教化候へ 行学は信心よりをこるべく候 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし

阿仏房尼御前御返事(平成新編御書九〇五頁)
建治元年九月三日 五四歳

阿仏房尼御前御返事 (御書・九〇五頁)

 御文に云はく「謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なるや」云云。
夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ。「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり。謗法の者にも浅深軽重の異なりあり。
 法華経を持ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれなり。此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小火をけすが如し。
 涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」云云。 此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種々の大難に値ふといへども、仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。


《意訳》

 頂戴しましたお手紙に、「謗法の浅い深い、軽い重いの違いで、受ける罪に違いがありますか」との質問がございました。

 それについてお答えいたします。仏が法華経を説かれたのは、すべての衆生が、一人も残らずに仏の覚りを得るためです。ですから、信ずる人は仏様の覚りを得ることができ、反対に謗る者は苦しみの世界から抜け出すことができません。そのことを法華経譬喩品第三には「この法華経を信じないで非難したり、けなしたりする者は、仏の覚りを得ることのできる『仏種』をことごとく断絶することになる。(中略)その人が臨終を迎えた後には、永遠に続く苦しみの世界に生まれ変わらなければならない」と説かれております。法華経を非難したりけなしたりする者にも、浅い・深い・軽い・重いの違いがあります。

 法華経を持ち信じているようでも、心から固く信じ、身と心がそろい、「能くこの法華経を持つ」と経文に説かれるように、強信な人は多くありません。このような人は、芥子粒ほどの小さな謗法があったとしても、深く重い罪を受けることはありません。何故ならば、信心は強く謗法は弱いからです。信心を水、謗法を火にたとえると、大量の水をもって小さな火を消すことと同じで、火事になる前に消えてしまいます。

 涅槃経には、「善い行いをする僧侶がいたとしても、法華経を非難したりけなしたりする者を見た時に、そのまま放置して、叱ったり間違いを指摘することがなければ、その人は仏法の中の敵である。過ちを指摘して処罰を加えるものは、仏の弟子の中でも真実の弟子である」と説かれております。

 日蓮はこの経文に強く促され、種々の大難に見舞われても「仏法の中の敵」となり、地獄の苦しみを受けることのないように、「折伏」の修行に自身も心得、弟子檀那にも強く勧めるのです。


《語句の意味》

○阿仏房尼=千日尼のこと。夫の阿仏房と共に、佐渡配流中の大聖人様を命懸けで信仰した女性。

○御文=阿仏房尼(千日尼)が大聖人に差し上げたお手紙のこと。その中で「謗法」についての質問をした。

○謗法=法を謗ること。法とは釈尊の仏法では「法華経」。末法の今日は「三大秘法の南無妙法蓮華経」。

○罪報=犯した罪で受ける報いのこと。罪を犯したことが原因となり、苦しみの結果を受けることをいう。

○意=こころ。釈尊が法華経を説かれた思い。気持ち。考え。おもわく。もくろみ。

○一切衆生=すべての生きとし生けるもののことで、大きくは畜生界の犬や猫も衆生に含まれる。

○皆成仏道=みな仏道を成ず、と読む。仏法を持ち信ずるものは一人残らず仏に成る、という経文。

○然りといへども=多くは、先の事柄に後の事柄が対立・反対することを意味する接続詞として用いられるが、ここでは、そうであるから、そこで等の順接的な意味で用いられている。

○成仏=仏とは真理を覚ること。また十界の中の仏界のこと。

○阿鼻獄=阿鼻地獄のこと。梵語のアビチの音訳で無間地獄のこと。八大地獄の中で、最も苦しみの大きい地獄。

○仏種=衆生が仏に成るために具えている根本の因(もと・原因・起こり)を、草木の種に例えた言葉。御書には「法華経は種の如く、仏は植え手の如く、衆生は田の如し」(『曽谷殿御返事』)とある。田の立場である私たちの生命の中に、成仏の種である三大秘法の南無妙法蓮華経を末法の仏様であられる日蓮大聖人様が植え付けて下さる、という御文。末法は本未有善、つまり「種」を持っていない衆生である。そこで、「下種」といって、種を下す仏が出現されるのである。大聖人様を 下種の仏と申し上げる意はここにある。

○色心=色は肉体。心は精神。身体と心の両面を表す言葉。

○能持此経=能く此の経を持つと読む。法華経分別功徳品第十七の文。「此の経」とは法華経のこと。法華経を持つ者の功徳がとても大きいことを説かれる。

○介爾=わずかのこと。少ないことを形容する中でも、さらに少ないことを意味する。

○涅槃経=正式には大般涅槃経といい、釈尊が入滅の時に説かれた経文。涅槃経は一日一夜に説かれたもので、法華経までの教えで覚ることのできなかった衆生を救うための補完的な教説。釈尊が最後に説かれたものではあるが、根本とすべきものではない。

○善比丘=比丘は男性の出家を指す言葉。女性は比丘尼という。善は、正しい道理に従うこと、道徳にかなうこと、よいこと、よい行為、振る舞い(日本語大辞典)。ここでは、仏の正しい教えを守り、仏の教えのままの行いをする僧侶であっても、折伏をしなければ善比丘とはならない、という意味で用いられる。

○呵責=しかり責めること。呵はしかる、責める、とがめる等の意。責もせめる、とがめる罪を正す等の意。同じ意味の漢字を重ねて強調する語句。

○駈遣=駈は追う、追い払うこと。遣も同義。呵責と同様に、同じ意味の漢字を重ねることで、追い払う意を強調する。つまり、強い力(物理的・精神的な両面)を加えて追い払う意。

○挙処=罪を挙げて処罰を加えること。

○仏法の中の怨=涅槃経の文の「仏法中怨」を読み下したもの。仏法を信じているようであっても、法を破るものを見て黙っている者は仏法の敵となる、という折伏行を勧める経文。

○声聞=仏が説法をする声を聞いて悟る機根の高い弟子のことをいうが、ここでは、仏の弟子全体を指す。

○せめられ=強く促される。せきたてる。苦しめる。

○種々の大難=大聖人様が折伏をされたことで受けられた大きな迫害で、@小松原の剣難、A伊豆流罪、B竜の口の法難、C佐渡流罪の四種類を「大難四箇度」と仰せになられている。他にも、命に及ぶような法難を招きよせ、末法の御本仏としてのお姿を顕された。

○免れる=「のがれる」は不快な状況から離れ去る意。「まぬがれる」は、不快な状況に遭わないで済む意。(国語大辞典)


《ポイント》

 千日尼が謗法の罪について、浅い深い、軽い重い等の質問をしたことに対する御返事の御書です。ここから、私たちは謗法について大聖人様の御教示を正しく学ぶことができます。

 では、何故千日尼がこのような質問をしたのでしょうか。そのことを大聖人様のお答えから推察いたしますと、次の二点を挙げることができると思います。一つ目は過去のことで、千日尼が、大聖人様の信仰をする以前の謗法の罪報について、もう一点は、入信後に御題目を唱えていても、謗法を犯すことがあるのではないか、と心配する上での質問です。

 一点目の質問について考えてみますと、日蓮正宗の家庭に生まれ育っても、過去世のことを考えますと、謗法と無縁である、とは言い切れません。まして、大人になってから御授戒を受けた場合は、神社への参詣や邪教との関わりなどで、謗法を犯したという認識があれば、この千日尼の思いを理解することができるでしょう。

 その質問に対するお答えが、「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」とのお言葉です。すべての衆生が仏に成ることのできる法華経の教えである、ですから、過去世を含め過ぎ去った時の謗法については、何ら心配をしなくても大丈夫です、と千日尼を励まされ、また平成の私たちを、励まし安心させて下さいます。

 大聖人様から、「例え深く重い謗法であっても、一人残らず仏への道を開く法華経の功徳を確信しなさい」とのお手紙を頂いた千日尼の悦ぶ顔が瞼に浮かびます。それとともに、安心して南無妙法蓮華経と自らも唱へ、他をも勧める決意をいよいよ固めたことは想像に難くありません。

 次の二点目についてのお答えは、「法華経を持ち信ずれども、能持此経の行者はまれなり」から「大水を以て小火をけすが如し」までの箇所です。この質問も私たちと無縁ではありませんね。現在の私たちは、御本尊様を受持して御題目を唱えております。それでも謗法と全く無縁になることは不可能ですから、むしろ切実な事柄だと思います。

 かつて、総本山六十六世日達上人が「与同罪(謗法に与同する罪のことで、広くいえば謗法に当たる)」についての御講義をされました。そのおりに、日達上人はおおよそ次のように御指南されました。
「急いでいるとき、バスを待っていては間に合わない、歩いていては勿論。このようなときにタクシーに乗る。そのタクシーに神社のお守りが吊されていた、神社のお守りですから謗法・与同罪に決まっている、だからといって、お守りが吊されていない別のタクシーを探して乗り換えることができるでしょうか。別のタクシーもお守りが吊されていないとは限らない、そんなことしていたら時間に遅れてしまう。そこでよく考えなければなりません。与同罪ではあるが、そのような場合には小さな罪ですから、さらに信心に励むように心掛けることが大切なんです」
と。

 お守りを吊してあるタクシーに乗ったら与同罪である、しかし、与同罪にならないようにしたら時間に遅れる、そこで、与同罪であることを知り、その上で、さらに信心に励む、というお言葉が心に強く残っております。

 当抄で大聖人様は、「能持此経」のお経文を示され、小さな誤りはあっても、それを消してしまう大きな功徳を積んでいるのですから、心配しなくとも大丈夫です、と千日尼がさらに精進をするように勧めて下さっているのです。

 私たちも、タクシーに乗った時、お守りを吊してあれば、「そのお守り効き目がありますか。効き目どころか悪いことが起こりますよ、お守りに頼るより、南無妙法蓮華経を唱へるとが大切ですよ」と積極的に声をかけ、本来なら与同罪を受けるところであっても、功徳を積む修行の場に変換することを忘れないようにしたいものです。

 ただ注意をしなくてはならないことが一点あります。それは、謗法となった五老僧の一人民部阿闍梨日向が、
「法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会す可く、尤も参詣す可し」(『原殿御返事』 日蓮正宗聖典・五五八頁)
といって、神社に参詣する屁理屈を構え、謗法を容認したことです。別のいい方をすれば、御題目を唱え折伏をしている私には功徳があふれている。その功徳あふれる私が神社に参詣するのだから悪鬼が善神に変わる、ということです。さらにいえば、謗法を犯しても、信心があれば大丈夫、地獄には堕ちない、といっていることと同じなのです。いうまでもなく、御本尊様を中心とした教えからの振る舞いではなく、自己を中心とした考えからの振る舞いであることがわかります。私たちは、この日向の謗法を「他山の石」として、謗法を犯さないよう注意をしてまいりましょう。

 さらに大聖人様は千日尼に、涅槃経の、「呵責・駈遣・挙処」の文を挙げられ、「能持此経」の信心から、「如説修行」の信心を、と御教示になります。換言すれば「自行」から「自行化他」へと信心を一歩進めることです。これにつきましては、五月の御講で学びたいと思います。予習をして頂き、その中で質問などもありましたら承りたいと思います。
 
 ご多用の中ご参詣御苦労さまでした。御参詣の皆さまに、この月も御本尊様の御加護がございますよう御祈念を申し上げます。お寺のハナミズキが咲き始めました。よき季節を迎えます。益々のご精進お祈り申し上げます。

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