日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年5月10・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

聖愚問答抄

『諸法実相抄』 (御書・六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし 行学たへなば仏法はあるべからず 我もいたし人をも教化候へ 行学は信心よりをこるべく候 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし

聖愚問答抄(平成新編御書四〇七頁)
文永五年 四十七歳

聖愚問答抄 (御書・四〇七頁)

嬰児に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す。医師が病者に薬を与ふるに、病者薬の根源をしらずといへども服すれば任運と病愈ゆ。若し薬の源をしらずと云ひて、医師の与ふる薬を服せずば其の病愈ゆべしや
薬を知るも知らざるも服すれば病の愈ゆる事以て是同じ。既に仏を良医と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふ。されば如来一代の教法をとうしわごうして妙法一粒の良薬に丸せり。豈知るも知らざるも服せん者煩悩の病ひ愈えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ。行者も亦然なり。法理をもしらず煩悩をもしらずといへども、只信ずれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報寂光の台にのぼり、本有三身の膚を磨かん事疑ひあるべからず。されば伝教大師云はく「能化所化倶に歴劫無く、妙法経力即身成仏す」と。法華経の法理を教へん師匠も、又習はん弟子も、久しからずして法華経の力をもて倶に仏になるべしと云ふ文なり


(意訳)

親からミルクを与えられたときに、このミルクの成分によって、成長するのだから頑張って飲もう、などと考えてミルクを飲む子はおりませんが、ミルクのお陰で子は成長します。医師から薬を処方されたとき、薬の成分を知らなくとも、医師を信じて、薬を服用することで病気は治ります。薬がどのような成分からできているかわからない、といって医師の勧めを断り薬を服用しないで、病気が治りますでしょうか。

薬の成分を知らなくても、薬を服用することで病が治る例と、法華経の「良医と病子」の譬は同じことです。寿量品では、佛を素晴らしい医師に譬え、私たち衆生を病の子に譬えております。そして、医師が薬を調合し、最高の薬を処方して服用するように勧めます。釈尊は一代に説かれた全ての教えを細かく分類され、その中で最も尊く勝れた教えを、妙法蓮華経として説き明かされたのです。このように尊い教えなのですから、教えの内容を知っているとか、知らないとかを越えて、信じる者は煩悩という大病が治癒するのです。病の者も薬のことや自身の病を知らなくとも、医師が処方した薬を信じて服用することにより、病が治ります。私たち信仰者も同じです。説かれる教えの道理やことわり、また自身が煩悩から起こる様々な悪しきことに気づいておらなくとも、仏様の教えを素直に信ずることで、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を瞬時に断じ尽くして、実報土・寂光土の国土に生まれ、本来有している真理と、智慧と、覚りの姿、の三身となり、その身を輝かせることは疑いありません。伝教大師が、能化も所化も共に歴劫修行はなく、妙法蓮華経の功徳で即身成仏する、と説かれておりますのはこのことです。法華経の法理を教える師匠も、習う弟子も同じです。ともに法華経の功徳で即身成仏をとげることができる、という文です。


(語句の意味)

○聖愚問答抄=大聖人様が文永五年、四十七歳の時に認められた、上下二巻からなる御書。御真蹟は現存しない。題号にあるように、聖人と愚者の問答形式で、信仰に迷う愚者が、最後に、「ただ一つの正法である法華経を受持し、この世界で最も尊い本尊を本師として、たった今から仏の覚りを得るまで、どのようなことがあってもこの信心から退転することはありません」と誓っている。拝読のところは、法華経の功徳の偉大さを示されている。

○嬰児=生まれてまもない子供。赤ん坊。

○医師=医者。治療に薬を用いたことから薬師とも。経文には仏を医師に譬えるものがしばしば説かれている。

○仁運=自然に。そのままで。

○仏を良医=私たちが毎朝夕読誦する、法華経寿量品第十六の、「譬えば、良医の智慧聡達にして、明らかに方薬に練し、善く衆病を治するが如し」のこと。ここでは、仏を医師に、教えを薬に、また私たちを、誤って薬を飲み悶え苦しむ医師の子に譬えて法を説かれる。

○擣和合=擣はつく、はふるう、和合はそれらをまぜあわせること。寿量品では、医師が「色も香りも味も勝れた薬草を探し求め、それぞれの薬草を粉にし、ふるいにかけて選別し、さらにそれらを調合した大良薬を病の子に与えることが説かれている。

○煩悩=私たちの心や身を煩わしたり悩ませることをいう。貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろか)の三毒は煩悩の根源にあるもの。ただし、大聖人様は「煩悩即菩提(ぼだい・覚りのこと)」と仰せられ、南無妙法蓮華経と御題目を唱える功徳により、心身を悩ませ苦しめる煩悩が、即座に仏の覚りとなる、と唱題を教えてくださっている。

○法理=教えの真理。筋道。正理。

○見思・塵沙・無明=見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑のこと。@見思惑(けんじわく)は、見惑(けんわく・けんなく)と思惑 (しわく)のこと。かたよった物の見方を見惑といい、見惑によるかたよった見方から起こる妄想を思惑という。A塵沙惑(じんじゃわく)。戸惑いの多いことを塵(ちり)や砂が無数にあることに譬えて、塵沙惑(じんじゃわく)とする。衆生を救済するために塵沙(むすう)の法門を知らなければならないのに、その法門を知ることのできない惑いのこと。菩薩の境界での惑いである。B無明惑(むみょうわく)とは、「非有非無」の法に惑い中道の差し障りとなるもの。非有非無とは、「有」という存在と、「無」という非存在の両方を否定し、その上で、肯定と否定の両者を止揚することになる。つまり、「非無非有」は存在論的な面からも、認識論的な面からも超越した見方考え方となる。この「有」る「無」しを越えたところに真実の法・真如がある、とするのが仏教である。

○実報寂光の台にのぼる=四土といって、凡聖同居土(ぼんしょうどうこど)・方便有余土(ほうべんうよど)・実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)・常寂光土(じょうじゃっこうど)の四種類に分けた国土の中の、実報土と寂光土のこと。実報土は菩薩の住所、寂光土は仏の住所。ゆえにこの御文で、その「台にのぼる」と仰せになられていることから、南無妙法蓮華経と信仰に励むことで、私たちも真実の仏の国土の中に住することが叶う、という意味で拝することができる。

○本有三身の膚を磨かん=本有は、本来、有りままに存在すること。三身の、@法身は真理、A報身は真理を覚る智慧、B応身は衆生の機根に応じて出現する仏身。覚りの姿。もともと、私たちにはこの無作の三身が具わっており、南無妙法蓮華経と文底独一の法華経を信仰することによって三身が現れることを、「膚を磨かん」と仰せになる。内面に隠れている尊い三身が、唱題・折伏の修行で磨かれて、表面に表に現れて光り輝く様を譬として用いられている。

○能化所化倶に歴劫無く=能化とは能く化導する意で、仏の立場。所化は化導される所(側)の意で、私たち衆生の立場。歴劫修行は、劫を歴て修行する意で、永い永い時間を費やして仏に向かう修行のこと。無量義経に説かれる。ただし、仏に近づいても永遠に仏に成ることができない修行である。そこで、法華経で即身成仏が説かれ、仏と衆生の区別なき成仏が明かされたのである。この文は、伝教大師の『法華秀句』に説かれるもので、妙法蓮華経の力の大きさを教えている。


〈信じることの大切さ〉

父であり医師の言うことを素直に信じることで病が治るように、過去の罪障や現在の我が身にある三毒を消滅し、覚りの境界にいたるためには、日蓮大聖人様の教えを素直に信じることこそただ一つの道であることを『聖愚問答抄』で教えて下さるのです。「折伏をとったら日蓮正宗の信仰ではない」と御法主上人の仰せです。自らとまわりの方々の幸せを実現する折伏行に励み、罪障消滅をして、よき来世を期しましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺