日蓮大聖人御書拝読/平成二十七年八月 日蓮大聖人御報恩御講 日蓮正宗 佛乗寺

立正安国論

宗祖日蓮大聖人様への御報恩御講に、暑い中を態々ご参詣になり、感謝の心を表す修行に励まれたことを、大聖人様は御覧下さっております。まことにご苦労さまでございました。
さて、現在国会では、「安全保障関連法案」の審議が続いております。昨年七月の「閣議決定」を受けて、これまで行っていなかった「集団的自衛権」を行えるかどうかを国会議員が決める、という手続きです。
昨年の閣議決定は、安倍首相の「クーデター」(雑誌「世界」八月号)、といわれるほどです。この法案について、仏法ではどのように捉えるのか、という質問がありました。
佛乗寺の檀信徒の中にも、賛成・反対ともにあると思います。ただ、大聖人様が仰せになっていること、経文にあることは知っておかねばならないと思います。そこで、大聖人様の御精神が示された、『立正安国論』を引いて、学んでみたいと思います。佛乗寺檀信徒各位には、意をお汲みいただき、正法広布の糧にして下されば有り難く存じます。

《誤った教えを断つことが世の中を正しくする唯一の方法》

『立正安国論』

@「夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん」(御書・二四八頁)

(現代語訳)
そもそも、釈尊〔能仁)が過去世のことを明かされた経文には、誤った教えを止めるためには、誤った教えを弘める者の命を絶つことが説かれております。しかし、インドにおいて釈尊が出世された後の経文では、誤った教えを止める方法として、それを弘める者に布施をしないことが説かれております。そこで、世界中の人々が、誤った教えを弘める者への布施を止め、全ての人々がこの正法を信仰するようになれば、大きな災難が次々におこるようなこともなくなります。

《語句の意味》
○釈迦の以前の仏教=「如来昔国王と為りて菩薩道を行ぜし時、爾所の婆羅門の命を断絶す(如来が過去世において国王と 生まれて菩薩の道を行じているときに、その修行を妨げようとした多くの婆羅門の命を断絶した)」(御書・二四四頁)ことが 説かれている涅槃経を『立正安国論』の第七問答で引用される。婆羅門とは、インドのカーストの最上位にある司祭者のこと。
○能仁=能忍とも書く。釈尊のこと。五濁悪世に出世して人々を能く慈しみ思いやる、との意。仁には思いやり、慈しみ、情け等 の意がある。
○施を止む=布施をしないこと。布施は六波羅蜜といって仏道修行の重要な項目。布施をすることで執着の心から離れること がかなう、とされる。私たちの立場では、謗法の神社や寺院などに供養をしないこと。
○四海万邦=四海も万邦も多くの国、あらゆる国の意。
○四衆=比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四種類の衆生のこと。ここでは、全ての人々の意で用いられている。
○其の悪=謗法の教えを弘める寺社・仏閣、および神官や僧侶が「其の悪」の根源。
○此の善=法華経の教え。末法の今日では、総本山富士大石寺に御安置の「本門戒壇の大御本尊様」の教えのこと。

《解説》
ここに、仏教の絶対平和主義を読み取ることができます。つまり、三千年前にインドに出現された釈尊以前の教えでは、誤った教えを説く婆羅門のもとで様々な悪しき現証を見たとき、「其のつみを斬る」とあるように、誤った教えを説く婆羅門の命を絶つことが説かれております。しかし、「能仁」以後、つまり釈尊が出現された後には、誤った教えを説く婆羅門の命を絶つのではなく、
婆羅門に布施をすることを止め、正しい教えに導く方法が説かれるのです。全ての人々が正しい教えを信じるようになれば、世界全体が正しい教えに導かれ、平和で穏やかな社会となるのです。武力で平和を実現するのではなく、正しい信仰を弘めて平和な社会を実現することを仏は教えて下さるのです。
道徳はもとより、私たちが生きて行く上で軌範となるもののもとに「宗教」があることは誰しもが認めるところです。あらゆる思想や行動の規準となるべきものとして、仏が多くの教えを説かれ、私たちが最後臨終を迎えたときに、「よい一生でした」といえるように、との慈悲の上から、仏教が始まりました。
しかし、教えを受ける私たちの心は「十人十色」ですから、私たちの心にあわせて、色々な教えを説かれ、順々に導かれたことはよく知られております。いずれも仏の教えですから貴いものですが、薬に効能があるように、教えにも効く効かないがあります。ところが、世の中の大多数は、このことに無頓着で、好き勝手に宗教をもてあそんでいるといっても過言ではありません。その結果、低い教えをもとにしたところから生まれた道徳観や思想によって、厳しい人間社会とそれを取り巻く環境が形成されてしまっております。
そこで日蓮大聖人様が、七百五十年前の鎌倉時代に御出現され、よりよき社会はよりよき思想や行動から生まれ、よりよき思想や行動は、正しい宗教から生まれることを述べられたのがこの『立正安国論』なのです。
その中で、具体的に示されるのが、末法に適合していない教え、効能が劣る教えの「念仏宗」や「真言宗」や「禅宗」の寺院や僧侶への布施を止めることによってのみ、社会を良くすることが出来る、ということです。
この教えの下、私たち日蓮正宗は、自らだけが最高の効き目がある薬を飲むのではなく、皆に最高の効き目のある薬を飲むように勧めます。このことを「折伏」といい、七百五十年前に宗祖日蓮大聖人様が教えて下さった通りの実践的修行です。
「折伏」という言葉から、厳しい、と感じるかも知れません。確かに、折り伏せるのですからそのように思われてもしかたのないところです。しかし、最高の効き目のある薬を飲ませることができたならば、厳しさが即座に優しさに変わることも理解できるのではありませんか。また、「折伏」は「独善的」ともいわれます。この批判には、私たちの法華経は、「法華経独一本門」、「文底の法華経」、つまり特別な意味を持った教えであり、まさに、「独り善き教え」なのです。したがって、「独善的」であたりまえなのです、と答えましょう。彼方此方の機嫌を取るような教えこそ、信頼に価しないものであることを教えるのが日蓮大聖人様の信仰です。

《仏の教えを壊れば兵士や奴隷に生まれる》

『立正安国論』

A「仁王経に云く『人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し』と」(御書・二四九頁)

(現代語訳)
仁王経嘱累品にも、「仏教を破る人には親孝行の子は生まれない。親族が仲違いをして、天の神も助けてくれない。悪性の伝染病に罹り、それらにおそわれない日々はなく、生涯どこへ行っても災難がついてまわり、死んでからは地獄・餓鬼・畜生におちるであろう。たまたま人間と生まれても、兵士や奴隷となって苦しみを受けるであろう。響きのように、影のように、夜、灯の光で字を書いても、灯の消えた後も字は残るように、現世で犯した謗法の悪業の罪は消えないのである、と。

《語句の意味》
○仁王経=正式名称を、仁王護国般若波羅密経という。法華経と金光明教と併せて鎮護国家の三部経とされる。
○六親不和=父・母・兄・姉・弟・妹の六種の親族。また妻や子、祖父・祖母、叔父・叔母などさまざまな組み合わせがある。さらに、 六親等にあたる親族と考えれば、本人から六世を隔てた「またいとこ」との関係。またいとこは、はとことも言い、いとこの子供ど うしが互いのことを呼び合ういい方。つまり「六親不和」とは、親兄弟ばかりか、親戚の全てが仲違いをして、争いをすること。骨 肉の争いのこと。歴史上では数多くの事例があるが、最近マスコミを賑わした、某家具屋の父と娘も六親不和の実例といえる。
○天神=帝釈天や大梵天、また八幡大菩薩・天照大神などの法華経の行者を守護する諸天善神のこと。この諸天善神について 大聖人様は、『秋元殿御返事』で、「安楽行品に云はく『諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す』」(御書・一二二四頁) と仰せである。現代語に訳すと、「法華経の安楽行品には、『諸天善神が法華経の信仰をする者を、昼となく夜となく常に守 る』と説かれている」ということ。
○疾疫=悪性の伝染病のこと。
○悪鬼=衆生を悩ます夜叉や鬼神。
○災怪首尾=災いや奇っ怪なことが終わりなく連続して起こること。首は始め、尾は終わりのことで、終始している、つまり連続し て切れ目のない災難のこと。
○連禍縦横=連続した禍がいたるところに起こること。またその様子。
○地獄・餓鬼・畜生=三悪道のこと。仏教を誹謗した者が受ける苦しみの世界。
○兵奴の果報=兵士や奴隷のように、他者に服従しなければならない報いを受けること。
 果報は、過去世の善い行いや悪い行いが原因となり、現世に善き報いや悪き報いとなって現れること。現世で、兵士や奴隷の境 界は、過去世において仏の教えをやぶったことが原因で、不自由な身となったのである。
○三界=欲界・色界・無色界のこと。私たちが生死を繰り返す間に受ける境界を三種類に分けたもの。欲界は心が欲望に執着 する世界。色界は、欲望に執着することはないが、色(物質)への執着が残る世界。無色界は欲望と物質への執着を離れた世  界。私たち凡夫は、ある一瞬にはあらゆる執着から離れることもあるが、ほとんどは執着の中に生きていることを表す言葉。

《解説》
仏の教えを破れば、「孝子無く」ですから、子供がいたとしても、子のために親は苦労をすることになります。少年犯罪が話題に上るとき、まっ先に思い出すのがこの「人仏教を壊らは亦孝子無く」の御文です。犠牲になった方々は勿論ですが、罪を犯した者にも親がおり、その親の心情を想うとき、心が痛みます。そして、御題目を唱えることの有り難さに気づきます。また、遺産の相続などが元になって、親族の争いが起こるのも仏教を壊ることで受ける罪であると説かれております。さらに、悪性の伝染病や心を悩ます鬼神が現れて四六時中身心が苦しめられるのです。

《三種類の苦しみの世界》

このように辛い現世を終えて来世にいたると、今度は地獄界や餓鬼界や畜生界の苦しみを受けます。

〔地獄界〕
地獄界は言葉にすることができない大きな苦しみです。たとえば、有効な治療方法のない病気や怪我などの身体的な苦しみや、解決の糸口が見つからない精神的な苦痛が、いつ終わるかわからず、しかも絶え間なく続くことは、「無間地獄(むけんじごく)」といってもよいでしょう。

〔餓鬼界〕
餓鬼界は、欲しいものを手にすることができない欲望に支配された世界です。物ばかりでなく人への執着も餓鬼界です。ストーカ・つきまとい犯罪が問題視されますが、これらも立派な餓鬼界の姿です。良くないことがわかっていても抑えることが出来ない心になるのは、幼児期に因があると医学的には説明されます。むろんそれもあるでしょうが、根本は過去の謗法であることを知らねばなりません。

〔畜生界〕
畜生界も楽ではありません。人間よりも高価な食べ物を与えられ、大事に飼われていたとしても、首輪に繋がれ、飼い主の顔色を窺い、何かに怯えている境界に生まれたくないのは誰でも同じでしょう。しかし、望まないところに生まれなければならないのが、仏教を破った罪障なのです。
これらの三種類の悪しき世界から解放され、人間として生まれたとしても、今度は「兵奴の果報」を受けることになるのです。

《兵奴の果報》

兵奴とは兵と奴隷のことです。奴隷を辞書で引きますと、「人間として基本的な権利や自由が認められず、他人の支配の下に労働を強制され、また、売買、譲渡される人。権利・自由などを制限され、他の者の支配を受けるもの」(国語大辞典)とあります。兵とは「つわもの、武器をとり戦争に加わる人。兵士。武士(広辞苑)・戦場などで武器を使用する人。勇ましく強い武人。勇敢な軍人(国語大辞典)」等とあります。大聖人様は、
『南部六郎三郎殿御返事』で、

B「貴辺は武士の家の仁、昼夜殺生の悪人なり」(御書・六四八頁)

と仰せになり、南条時光に与えた、『法華証明抄』では、

C「上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり」(同一五九一頁)

と仰せです。

《武士は悪人?》

南条時光殿は申すまでもなく駿河・上野郷の地頭であり、また、南部六郎三郎は、甲斐・身延の地頭・波木井実長、あるいはその一族と思われるます。南条家・波木井家共に武家・武士であることから、この御文が与えられたのである。
「昼夜殺生の悪人」・「武士の家に生まれて悪人」というお言葉から、現世に武士として生まれた果報を良きものであるとは仰せになりません。ここで、「悪人」と仰せになる意は、『立正安国論』で引用された、仁王経の「仏法を破った果報」として、今世に武士となった、と拝することができます。

《果報とは》

〔一般的な果報〕
ここで「果報」について述べます。果報というと、「果報は寝て待て」という言葉を連想する方も多いことと思います。幸運は自然とやってくるのを気長にまつべきである、良い知らせはあせらないで待てば必ずやってくる、という意味で使われます。ここでの「果報」は、報いがよいこと、幸福なさま、幸運、幸せ等の意味です。果報者は、幸せな人のことを指す言葉です。

〔仏法での果報〕
「果報」は本来は仏法の言葉で、経文には種々の果報が説かれます。その中でも広く知られているのが、過去の善悪の行いや、苦しみや楽しみ、迷いや悟りなどの心の用きを直接の原因とし、後に報いとして受ける、ということでしょう。善き業(ごう・行為)であれば善き果を受け、悪しき業であれば苦しみの果となって受けることになります。また、この「果報」には総報と別報があるとされます。総報は平等に現れる報いであり、別報は男女・老若・貧富などの差別として現れる報いとされます。さらに、現世での業因を現世の中で受けることを「現報」、次の生で受けることを「後報」と説くものもあります。
大聖人様は『観心本尊抄』で、妙楽の釈籤を引かれ、「因果は唯心、報は唯色に在り」とされております。これは、方便品の十如是の中の、「如是因・如是縁・如是果・如是報」に関しての御教示で、善悪の因と果は心に受け、その報は色(身体)に受ける、と果報を色心に区別されております。むろん、色心不二の教えですから、心と身体が別々に過去の業因を受けることではなく、苦も楽も同時に現れます。「苦楽思い合わせて南無妙法蓮華経」と四条金吾にあてた御書もありますように、色心は別々ではありません。一往このようにされるのです。

《悪い原因があっても、よい結果に変えることが出来る》

日寛上人は『三重秘伝抄』で、

D「善悪に亘りて習因習果あり、先念は習因、後念は習果なり。是れ則ち悪念は悪を起こし、善念は善を起こす。後に起こす所の善悪の念は前の善悪の念に由る。故に前念は習因即ち如是因なり、後念は習果即ち如是果なり。善悪の業体を潤す助縁は是れ如是縁なり。習因習果等の業因に酬いて正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり」

と述べられます。習は積もる・ためるの意。過去の善悪の業(業は行い行為のこと)が習因、因として積もっている状態です。それが、後の世に現れるのが結果として現れる、とされます。
次の「善悪の業体を潤す」とは、善きこと、悪しきこと両面にわたる身と口と心の行為によって習因習果が決められるのですが、そこに「如是縁」が働くことで、業体を潤すとされます。潤すは、利益・豊にするなどの意味ですから、悪い業によって悪い結果を受ける身体であっても、縁によって利益される、というのです。その最終的な姿として、「報」がある、という御指南であると拝することができます。
ではこの「縁」は何か、といいますと、「因」は、私たちにとって直接的、内的な原因となることに対して、「縁」は間接的、外的な原因となるものです。そこで日寛上人は『文底秘沈』などで、「本尊は私たちにとっては縁であり、正しい本尊に縁をすることで正しい報いを受けることができます」(取意)と、「縁」が大切であることを御教示です。
この御文からもわかりますように、過去の悪業により、悪果・悪報を受けなければならない業体であったとしても、正しい御本尊様に縁をすることによって、善果・善報となって受けることができるのです。ですから、日蓮大聖人様は、「正しい御本尊様に手を合わせなさい」と折伏をされるのです。私たちもまた、そのお言葉を信じて折伏をするのです。

《兵奴の果報》

以上のことから、現世において「兵奴の果報」にあるとすれば、過去世の「仏法を破った」報いとして現れているのですから、深く反省をして、罪障消滅の信心修行に励むことが大切です。「どのような罪を犯そうとも、南無妙法蓮華経と唱えれば消えないものはありません」と大聖人様は仰せですから、心配はありません。心配なのは、今日決意しても明日忘れることです。ですから、持続すること、「たえまなく流れる川の水のような信仰」を大聖人様は勧められるのです。

《仏の教えを根本とした聖徳太子》

『十七条の憲法』 (日本古典文学全集三・五四三)

(原文)
E一に曰く、和を以ちて貴しとなし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、亦達(さと)る者少なし。是を以ちて、或は君父に順(したが)はず、乍いは隣里(りんり)に違(たが)ふ。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずからに通ふ。何事か成らざらむと。

(現代語訳)
一には、互いに仲良くすることをなによりも大切にし、仲違いをしないことを根本とすべきです。人は群れるもので、賢者は少ないのです。ですから、君主や父親のいうことにしたがわず、近隣とも仲違いをします。しかし上の人も下の人も助け合い、睦み合う心で種々の事を話し合うならば、おのずからものごとの道理にかない、どのような事も成就します。


(原文)
F二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(きょくそう)なり。何の世、何の人かこの法を貴びずあらむ。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く教うるを以ちて従ふ。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何を以ちてか枉(まが)れるを直(ただ)さむと。 

○四生仏教用語。生き物を生れ方により四種に分類したもの。
 一、 胎生 (母胎中で体を形成して生れた生き物) ,二、 卵生 (卵の形で生れた生き物) ,三、 湿生 (湿気のある場所から 生れた生き物) ,四、 化生 (過去からの業の力によって生れた生き物で,天人などをいう) の四種。 (コトババンク)

(現代語訳)
二には、篤く三種の宝を敬いなさい。三種の宝とは、仏と、仏の教えと、教えを伝える僧つまり、仏・法・僧のことです。なぜならば、全ての衆生が最後の依りどころとすべきものであり、すべての国の究極の教えだからです。どのような世でも、いかなる人でも、この教えを貴ばないことはありません。極悪の人は少なく、よく教えることで善人になります。そのためには三宝に帰依することです。三宝に帰依する以外に曲がった心を真っ直ぐにすることはできません。


(原文)
G十に曰く、忿(ふん)を絶ち瞋(しん)を棄(す)てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。人みな心あり、心各々執有り。彼を是ならば我は非なり。我是なれば彼は非なり。我必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共にこれ凡夫ならくのみ。是非の理(ことわり)たれか能く定むべけむ。相共に賢愚なること鐶(くわん)の端(はし)なきが如し。是を以ちて、彼人(そのひと)瞋(いか)ると雖(いえど)も、還りて我が失(しつ)を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙(おこな)えと。

(現代語訳)
十には、心に恨みを懐かず、顔に憤りを表さず、人が自分と違うといって怒ってはなりません。人にはそれぞれに心があり、その心に執着をもっております。彼が良いと思っても私が良いと思わなかったり、反対に私が良いと思っても彼が良いと思わないようなものです。私が聖者で彼が愚者だということもありません。私も彼も共に誤り多き凡夫なのです。良いとか悪いとかを誰が定めるのでしょうか。互いに賢者であり愚者であることは、金輪に端がないようなもので区別はつきません。ですから、相手が怒っているならば、むしろ自分に過ちがあるのではないかと自省をしなさい。自分だけが得たと思ったことも、皆の意見に従って行動しなさい。


(原文)
H十七に曰く、それ事は独断すべからず。必ず衆と論(あげつら)ふべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただし大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(しつ)あらんことを疑ふ。故に、衆とに相弁ふるときは、辞(じ)則ち理(り)を得む。

(現代語訳)
十七には、ものごとは独断で決めてはなりません。必ず皆で論議をすべきです。ささいな事はそのかぎりではありません。ただ重大な事柄を決めるときには、過失があるかも知れませんから、皆で検討することで、道理にかなう結論を得ることができるのです。

《山背大兄王の生き方》

『日本書紀』

(原文)
I山背大兄王(やましろのおおえのみこ)、三輪文屋君(みわのふんやのきみ)をして軍將等(いくさのきみら)に謂いて曰く、「吾、兵を起こして入鹿を伐たば、其の勝たんこと定(うつな)し。 然るに一身(ひとつみ)の故に由りて、百姓(おほみたから)を傷殘(やぶりそこな)はむことを欲(ほり)せじ。是を以て吾が一身を入鹿に賜はわむ」とのたまひ。終に子弟・妃妾(むがわ・みめ)と一時(もろともに)に自ら経(わな)きて倶(とも)に死(みう)せましぬ。(日本古典文学全集四・八二) 

(現代語訳)
山背大兄王は三輪文屋君に命じて軍將たちに、「私が兵を起こして入鹿を討伐すれば勝つことは必定です。しかしながら私一身のために人々を殺したり傷つけたりしたくはありません。従って私の一身を入鹿に与えましょう」と語らせました。そしてついに一族そろって首に縄をかけ、自害をされました。

山背大兄王は聖徳太子の長男です。聖徳太子は十七条の憲法に示された条文に明らかなように、仏の教えを固く信じておりました。ことに第二条の、仏法僧の三宝を敬うこと、との文は、聖徳太子の仏教への篤い帰依の姿が見て取れます。その父の教えをよく守り、実践したことが日本書紀の記述から明らかです。
聖徳太子の没後に天皇の後継争いがあったようで、聖徳太子の子とされる山背大兄王は有力な候補者だったようです。しかし、蘇我入鹿(そがのいるか)に襲撃され、一度は生駒山に逃れましたが、斑鳩宮に戻ったときに再度襲撃を受け、一族全てが自害をした、と日本書紀には記されております。

《山背大兄王の自死》

山背大兄王は、「我が父・聖徳太子は、仏教の真髄が説かれる法華経を根本にして国造りをした。その思いは半ばかも知れないが、この私が軍事力で対立相手を打ち破り、権力を手にして国の政を行っても、それは父の望むところではない。なによりも仏の教えに背くことになる。今、自らの命を絶つことは残念であり、妻子も可哀想に思うが、今世だけの命ではない。私の一身のために、人の命が断たれ、家臣達が人殺にするよりも、自らの命を絶つことを選ぶ」と。

『立正安国論』に示されるように、仏教は絶対平和を説きます。そこで山背大兄王は以上のように考えたのではないかと想像します。

「正法を立てて国を安らかにする」〜御本仏の教えは、永遠の指針〜

『立正安国論』は、いまから七百五十五年前に認められました。時代が変わろうともそのお言葉は不変です。その中に示される、「正法を立てて国を安らかにする」という御本仏の教えは、私たち弟子檀那にとって、永遠の指針です。
その上から見ますと、いま私たちは大きな岐路にあるといえます。再び戦禍に苦しむのか、それともこの地球上から争いの芽を摘み、戦禍を未然に防ぐための努力をするのか、という分かれ目に思えます。
私たち自身には、政治力も経済力もありません。世の中を動かすような大きな力はありません。しかし、私たちには、「仏力」と「法力」を受ける「信力」と「行力」があります。仏力も法力も自然に具わるものではありません。棚からぼた餅、絵に描いた餅ではない、これが日蓮正宗の信仰です。御本尊様の仏力と法力を信じ、折伏に励むことが、世界中で最も貴いことです。全宇宙で最高の修行が私たちの勤行唱題であり折伏です。世界中の人が一人残らず幸せになることのできる「南無妙法蓮華経」です。ハードルは低くはありませんが、決意をもって進んでまいりましょう。
暑い毎日ですが、我が生命の中にある、清らかで涼しい「清涼の池」を思い浮かべ、少しずつで大丈夫です。前進をいたしましょうご参詣の皆さまと檀信徒の皆さまの益々のご健勝とご活躍を御祈念申し上げます。
来月は少し過ごしやすくなっていることと思います。お元気で信心の歩みをお運び下さい。

以上


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