日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成27年9月13日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

開目抄

開目抄:平成新編日蓮大聖人御書(五六三頁)

文永九年二月 五一歳

『開目抄』 文永九年二月 五一歳(御書・五六三頁)

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし。

【意訳】

私日蓮は、去年の九月十二日の深夜に首を切られました。この開目抄は、日蓮の魂魄が佐渡の国に着き、翌年の二月、雪の中で書き顕して、縁のある弟子に与えるものです。日蓮の死罪・流罪を怖いことであるように思うかもしれませんが、法華経の教えの上から見れば、決して恐ろしいものではありません。この開目抄を読む人は、信心が定まった人たちですから、恐れることはないでしょう。この開目抄は、法華経の勧持品で、釈迦仏・多宝仏・全ての仏が、未来の日本国の姿、つまり今日日蓮の身に起こっている三類の強敵を予言していることを明らかにしたものです。したがいまして、この開目抄は縁ある弟子檀那に与える日蓮の形見です。

《解説》

○「去年の九月十二日子丑の時に頚はねられぬ」

この御文は、文永八年(一二七一年)九月十二日の「龍ノ口法難」を指します。龍ノ口は現在の江ノ島海岸にある地名です。鎌倉幕府はそこに刑場を設けておりました。日蓮大聖人様は、建長五年(一二五三年)に立宗宣言をされ、末法の世に生を受けた私たちは、「南無妙法蓮華経」の教えでなければ幸せになれない、と人々を強く折伏をされました。鎌倉幕府の執権に対しても『立正安国論』を上呈して、折伏をされました。大聖人様の折伏は、「四箇の格言」といって、誤った教えでは決して幸せになることができず、反対に多くの苦しみに遭う、と教えられます。

四種類のいましめの言葉は、

@念仏の教えを信仰すれば無間地獄の苦しみを受ける。
A禅宗の教えは天魔の教えである。
B真言宗の教えを信仰すれば国が破れる。
C律宗の教えは国に仇をなすものである。

です。
この指摘に対して、幕府の権力者たちは、誤っていると指摘された、念仏宗や真言宗の僧侶が説く教えのみを信じました。法華経に説かれることが正しいか、大日経や阿弥陀経に説かれることが正しいのかを判断することなく、一方的に大聖人様を迫害したのです。中国の孔子が、「良薬は口に苦けれども病に利あり、忠言は耳に逆らえども行いに利あり」といっておりますが、鎌倉幕府の権力者たちにとって、大聖人様に信仰の誤りを指摘されたことが耳に痛かったのでしょう。

その結果、幕府は文永八年の九月十二日の深夜、竜の口の刑場で大聖人様の首を切る、という暴挙にでました。そのことを、「頚はねられぬ」と仰せになるのです。

その時に不思議な現象が起こり、大聖人様の首を切ることができませんでした。不思議な現象とは、江ノ島上空に、月のような大きさで明るく光る球体が、南東から北西に向かって通過したことです。その場にいた人たちの顔がはっきりとわかり、首を切ろうと構えていた大刀取りの目が眩んでひれ伏すほどの明るさであったことが『種々御振舞御書』に記されております。

そこで次の御文、

○「此は魂魄佐土の国にいたりて」

と述べられるのです。「魂魄」とは、亡くなった人の魂・霊魂のことです。ここで、大聖人様は「魂が佐渡の国にある」と仰せになり、竜の口法難において、大聖人様のお立場が変わられたことを弟子檀那に教示されるのです。つまり、竜の口法難の意義は、それまでの、釈尊が説いた法華経を弘める使いである上行菩薩様の立場からさらに進んで、法華経の文の底に秘し沈められた教えを説き、人々を導く末法の御本仏としてお立場を明らかにされることにあります。

江ノ島で首を切られ、魂魄は佐土にある、といわれても生物学的観点からすれば、百パーセントありえない話です。そこで、大聖人様に反対する人々は、「龍の口法難でのことは、後の人が創作した物語でしょ。とくに光物のことは」といいます。

そこで、御書の中から龍の口法難について触れられたところを拝してみますと、

『四条金吾殿御返事』
「何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模の国竜口にて頚切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩赤足にて泣き悲しみ給ひ、事実になれば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき」(御書・一五〇一頁)

この御文から、四条金吾殿が竜の口の法難に直接居合わせたことがおわかり頂けると思います。四条金吾は、大聖人様が載せられた馬の手綱をとって、しかも裸足でお供しました。そのうえ、大聖人様に万が一のことがあれば、自らも腹を切ってお供をしようとの決死の思いでした。この四条金吾に次のようなお手紙を与えております。

『四条金吾殿御消息』
「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ」(御書・四七八頁)

三光天子の三は、太陽・月・星の三種類の天上に輝くものです。仏法では、これらは諸天善神が成り変わったものであり、諸天善神は法華経の行者を守護する、と説かれておりますので、竜の口の時には、月の諸天善神が現れて大聖人様を御護りした、ということです。

竜の口法難に時と場所を共有していた四条金吾に、「光物」のことを述べられていることが重要な意味を持ちます。その光物が大聖人様を御護りしたことを、

『種々御振舞御書』では
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月よのやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり」(御書・一〇六〇頁)

と述べられ、光物が現れた意義を明確にされております。
これらのことから、

@竜の口法難は、後世の創作でないこと。
A光物が現実に出現していたこと。
B光物の出現により、大聖人様の頚をきることができなかったこと。

がわかります。二年前の平成二十五年二月にロシアに堕ちた隕石が記憶に新しいところですが、あの映像を見ますと、まさに「光物」が突如現れております。自然界の現象と、大聖人様が首を切られるその時が一致した不思議な出来事が竜の口法難です。

私たち凡夫には不思議と思えることを、仏様はどのように説かれているか、それを明らかにした書が、「此は」といわれる『開目抄』なのです。

日蓮大聖人様が末法の仏様であることを明かされた『開目抄』は、

○「返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば」

という御書です。佐渡に着かれた翌年の文永九年二月に、雪の中で記され、縁のある弟子にあたえられました。その内容は、

○「をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ」

この御文、恐ろしいけど恐ろしくなく読む人は恐れなくてよい、なんだかよく分からない、と思うことでしょう。確かにその通りで、一所懸命に仏教の勉強をした高僧といわれる者であっても、ここを理解することはできませんでした。一つの例として、江戸時代に日講という邪宗・日蓮宗の僧侶を挙げることができます。この者は、「(竜の口で首を切られ)すでに幽霊となった大聖人が書かれたものだから恐ろしい、とされる。しかし長年大聖人を有縁の師と仰いでいる者たちが読めば、恐ろしいことはない。反対に、縁のないものが読めば幽霊が書いた書であるから恐ろしいものである」と解釈しております。これは、日寛上人が『開目抄』を解説された『開目抄愚記』の中で、破折をするために引用されているもので、日寛上人は日講の解釈を、「笑うべし、笑うべし」と仰せです。

この箇所の正しい拝し方は、日寛上人の御指南に明確です。

「法華経の勧持品第十三に説かれるように、末法悪世に正法を説き折伏を行えば、命の及ぶような妨げが必ず起こることから、一往は『怖し』といわれる。ところが、法を弘めるためには我が命を愛せず、ただ仏に成ることができないことを惜しむ、という法華経の行者である日蓮大聖人は、恐ろしいことなどないゆえに、『恐ろしからず』と仰せられている」と。さらに、「我不愛身命」の信心が定まっている人が読めば、恐ろしいことはないから、「をぢぬらん」と明確な御指南です。

私たち日蓮正宗の檀信徒であれば、大聖人様が末法のご本仏であることを信じておりますから、少しも不思議ではなく、あたりまえの解釈なのですが、相伝のない邪宗・日蓮宗の者たちにとっては、いくら頭を抱えて勉強しても理解できない御文なのです。ここでも、「相伝の宗旨」である日蓮正宗と、「不相伝の宗旨」である邪宗・日蓮宗の違いが明らかです。

○「此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし」

法華経には末法濁世に仏が出現して悪世に日々を送る人々を救うために活動されることが説かれます。悪世末法の衆生を救うためには、釈尊が説かれた教えでは用を為しません。末法の仏が出現して法を説かれます。その仏は多くの法難に遭いながらも、折伏をされ退くことはありません。その仏は、ピカピカに飾り立てた、奈良や京都のお寺にある仏像のような仏ではなく、「凡夫の姿」で出現されます。その仏とは日蓮のことです、と『開目抄』に明かされたのですから、当時の人々は信じることができなかったのも無理のないところでしょう。大聖人様が定められた六老僧といわれる六人の高弟の中でも、ただ日興上人お一人が理解できたことです。

したがいまして、この当世をうつし給ふ明鏡、というお言葉で、法華経の勧持品に説かれる正法を布教する者を妨害する用きが現れたことで、仏の説かれることが正しいものである、とされるのです。そして、そのことを『開目抄』に記しているのであるから、この『開目抄』は日蓮の形見なのである、とその大切なことを遺言されたのです。

今日は七百四十五回目の竜の口法難の日です。末法のご本仏としてそのお姿を顕された、と拝すれば、今日が七百四十五回目の御出現の日、ということになります。

この意義ある日を、御報恩の歩みを運ばれた皆さまに、御本仏日蓮大聖人様よりお誉めの言葉ががあることを信じます。お誉めの言葉は無量の功徳を受ける、ということです。『富木抄』で、

「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はゞ、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし」(御書・一三七〇頁)

と仰せ下さるように、「私のことよりも法のことを、私のことよりも周りの人たちの幸せを」という「我不愛身命」を心に留めて進むならば、月天子が大聖人様を御護りしたように、私たちにも必ず御本尊様の御加護があります。 そのことを確信する「御難会」です。

季節がかわり過ごしやすくなります。このよき時を有意義に過ごしましょう。ご精進をお祈りいたします。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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