日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成27年11月1日永代経/日蓮正宗佛乗寺

勤行
〜「正行」である唱題の意義〜

【正行】

先月は勤行におけるお経文の意義について、日寛上人の御指南を拝し、「勤行」とは、身と心を尽くして仏道修行に励むこと、日蓮正宗だけが行うものではなく、仏教では僧侶も信徒も区別なく行うべき修行であること、ところが現在では僧俗ともに勤行をしている宗派は日蓮正宗ぐらいであること、さらに、正行である唱題と助行である読誦の両方が肝要であることを学びました。ただし、あくまでも正行である唱題が根本であり、方便品と寿量品の読誦は大切ではありますが唱題を離れては無意味であることも学びました。

確認になりますが、「正行」と「助行」という語句からもわかりますように、お題目を唱えることが中心であり、お経文はそのお題目に力を添える意味があることを、日寛上人の「お米や麺類の味を引き立たせる役目にある塩や酢」また「清水の用きをより強くする灰汁」という御指南を忘れてはなりません。食事において、塩や酢だけでは身を養うことができないように、灰汁だけでは洗濯ができないように、あくまでも米や麺、また清水が中心であることを忘れる本末転倒の者が時におります。

勤行といえば、お経だけだと思っているとしか思えない者も中にはおります。せっかく勤行に参詣しても、お経が終わったらさっさと席を立って帰ります。太鼓を叩いて南無妙法蓮華経とお題目を唱えるのが日蓮正宗の勤行なのですが、それをしないで帰ってしまうのです。

ところが、そのような者に限って、十如是が二回だったとか四回だったとかいって、モンクを言います。正行であるお題目をなおざりにする姿は、大聖人様の信仰とはいえません。せっかくの参詣も功徳を受けるどころか他の人たちの信仰を乱すことにもなりかねません。五逆罪の一つである「破和合僧」といわれても致し方ないところです。哀れで可哀想な姿を「他山の石」とすることで、我が身を正していただきたいと思います。『善知識』と捉えるならば、その者の役目もあることになるでしょう。「発心真実ならざれども・・」

さて、今月は、正行であるお題目の意義について御書を紐解いてみしょう。

『妙法尼御前御返事』(御書・一四八三頁)

白粉の力は漆を変じて雪のごとく白くなす。須弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。
  しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。かゝる人の縁の夫妻にならせ給へば、又女人成仏も疑ひなかるべし。

(意訳)

白粉は黒く塗った漆でも、雪のように真っ白にすることができます。世界の中心に聳え立ち仏様が住まわれる須弥山に近づく人々の色はみな金色になります。法華経の名前である南無妙法蓮華経を持つ人は、現世ばかりか遠い過去世において積んできた所の、漆のように真っ黒になる、悪い報いによって受ける原因を変えて、よい果報を受ける善業に変えることが出来ます。それは、真っ黒に塗った漆を真っ白に変えるように劇的なものです。
そのような法華経のお題目の功徳ですから、亡くなられた聖霊が最後に南無妙法蓮華経と唱えられた事で、現世ばかりか現世に生を受ける遙か昔からの悪業も善業にかわり仏になる種になります。これが、苦しみや悩みの元になる煩悩をなくすることなく仏様の覚とすることが叶い、生死生死を繰り返す苦しみを乗り越える功徳であり、私たちのような凡夫の身が、そのまま仏の身である、という南無妙法蓮華経の深く貴い教えです。このような教えを信仰する人の縁として夫婦になったのですから、妙法尼、あなたもまた女性として成仏をすることは間違いがありません。

(解説)

この御文を拝するまでもなく、南無妙法蓮華経と御本尊様に手を合わせた方の臨終の相が、大聖人様の仏法の正しさを教えてくれます。皆さまも体験されている通りです。肝臓癌で入院中には、病気独特の症状が出て、顔色が黄色かったり元気なときよりも黒くくすんだようになっていても、臨終の相は白く穏やかになることを。このことを不思議と云わずしてなんといいましょう。前世からの「黒業」によって、真っ黒な顔で来世に旅立つところを、南無妙法蓮華経とお題目を唱えたことにより、「白業の大善」となった証拠が、白い顔での臨終です。凡夫の身がそのまま仏の身であることを証明する姿が私たちの周囲にあることを忘れずに、我が信心を励ましてまいりましょう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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