日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成27年12月13日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

十字御書・崇峻天皇御書・御義口伝
〜 さいわいは心よりいでて我をかざる 〜

日蓮大聖人御書拝読

@『諸法実相抄』(御書・六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし 行学たへなば仏法はあるべからず 我もいたし人をも教化候へ 行学は信心よりをこるべく候 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし

A 『十字御書』(御書・一五五一頁)

わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。

B『崇峻天皇御書』(御書・一一七四頁)
                       
王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ。孔子と申せし賢人は九思一言とて、こゝのたびおもひて一度申す。

C『御義口伝』(御書・一七七五頁)

功も幸と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり云云。

言葉は慎重に。思いがこもった言葉は相手を救い自らも救われる。

@わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。

【意味】
不用意な言葉で我が身を滅ぼすことがあります。心から人を思いやる言葉は我が身を飾るものになります。

言葉は選んで

 「口は災いの元」とはよく知られた言葉であり、私たちも常に心がけていることです。不用意な発言は相手を傷つけるばかりか自分自身にも災いをまねくことになります。ですから、言葉には十分に注意をしなくてはならない、という戒めです。
 同じような意味で使われる言葉に、「物言えば唇寒し秋の風」・「口は禍の門」・「口は善悪の門」等があります。
四条金吾に与えた『崇峻天皇御書』では次のように述べられております。

「王位の身なれども、思ふ事をばたやすく申さぬぞ。孔子と申せし賢人は九思一言とて、こゝのたびおもひて一度申す」

 「王位の身」とは第三二代の天皇である崇峻天皇のことを指します。この天皇は在位五年で臣下の蘇我馬子に暗殺されました。臣下に暗殺された経緯が『日本書紀』に記されており、大聖人様も引用されたものです。それによれば、あるとき猪を贈られた天皇が、髪に挿していた簪を抜いて猪の両目に何度も突き刺し、「いつの日か憎いと思っている者の目をこのように突き刺してしまおう」と言ったそうです。それを伝え聞いた蘇我馬子が、殺されるのは自分だと思い込み、機先を制してことに及んだというのです。
 大聖人様は、国王の身であっても、言葉を過って身を滅ぼした例と、孔子が一言発するにあたって、九回も考えた故事を挙げ私たちを誡めて下さっております。

言葉の軽い時代

 「言葉が軽くなっている」とよくいわれます。その代表として挙げられるのが、東京オリンピック招致活動において、安倍晋三首相が「状況はコントロールされている。影響は湾内で完全にブロックされている」と発言したことではないでしょうか。この発言は平成二十五年の九月です。丸二年たった現在も未だに汚染水はコントロールされておりません。このようなことは安倍首相だけではなく日本の政治家(せいじや)全てに当てはまるように思えてなりません。今年の夏にあった「戦争法案」や現在渦中にある「消費税増税」における彼らの発言も同様ではありませんか。思いますに、日本ばかりか世界中で「言葉が軽くなっている」のかも知れません。そのようなときだからこそ、この大聖人様のお言葉が大切であることに気づきます。
 同じ言葉を発し、同じように聞いても受け取り方はそれぞれです。誉めてもらったと悦ぶかと思えば、馬鹿にされたと怒り出す場合もあります。口から一度出たものは元に帰りませんから、慎重の上に慎重を期して用いなければなりません。相手のことを思い、相手の身になって、それこそ「九思一言」であれば問題も解決するのだと思います。
 九回どころか二回でもまどろっこしい、と思うせっかちな性格の人は絶望するかも知れません。私などは匙を投げます。

「さいわい」は私たちの心の中に

 しかし、『十字御書』での次のお言葉が、

「さいわいは心よりいでて我をかざる」

です。ここに私のような短気の者にも希望があります。

「災い」と「幸い」

「口」と「心」
「身を破る」と「我を飾る」
が対になっていることに気付きます。では「さいわいは心よりいでて」とはどういうことでしょうか。実は、この「さいわい」は、相手のことを思う心、周囲の人たちのことを思いやる心のことです。広くいえば、「世界中の人たちの幸せを願う心」、狭義にいえば「親や兄妹、友人知人、恋人の幸せを願う心」がその人を飾るものになる、という意味です。
結局は、いかに相手を思いやるか、と言うことに尽きるのです。そのように心がけている人の言葉は乱暴でも聞く人の胸を打ち、心に届くのではないでしょうか。換言すれば、ここでの「さいわい」とは相手を思いやる心、相手を幸せにしよう、と願う心のことです。つまり、大聖人様のお遣いをすれば九思一言でなくとも我が身を飾ることができる、と言う実践が示され、それがそのまま、我が身を飾る徳になるのです。
「辛いに一字加えると幸いになる」と歌にあります。私たちの心は漢字のように簡単ではありません。自分の心が辛いときに相手を思いやることなどできない、とさらに辛くなることがあります。そのようなときに、この御文を思い浮かべ「幸せは私の行動から生まれる」と信じて、自分のことだけではなく、周囲の人たちのことを願うとの一点を加えることで、「身を飾る」ことができるようになるのではないでしょうか。
 それが「折伏」であり、「折伏」は自身が成長するための仏道修行、という仏様からの励ましの言葉なのです。

 私たちの信仰から拝すると

「功も幸と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり云云」

という『御義口伝』での御教示が思い浮かびます。ここで大聖人様は、「功徳の功は幸いということです。また悪しきことを消滅させる用きを功(幸)といい、善きことを生み出す用きが徳といいます。功徳とは凡夫の身がそのまま仏ということであり、それは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根、つまり我が身全体が清らかで汚れのないことです。日蓮が教えるように自行化他の修行に励むことで六根清浄になる、と心得なさい」と教えて下さっております。このお言葉から、私たちが三大秘法の南無妙法蓮華経を信じて精進を重ねる私たちの命には「悪を滅し善を生ず」功徳、すなわち仏様のお心が具わっていることになります。まさに「功徳は我が命の中にあり。功徳は我が身を飾る」と南無妙法蓮華経と信心に励む貴さを示されたものであることが拝せられます。
 年末を迎え益々慌ただしくなってまいりますが、新しい年を迎える準備期間と捉え、我が身を飾る功徳を信じ精進をいたしましょう。
 出来るか出来ないかは迷い続ける闇の連続である。闇から抜けるには、やるかやらないかである。決めれば能力は生まれる。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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