日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年1月10日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

就註法華経口伝(『御義口伝』)
〜 第廿五 建立御本尊等の事 〜

日蓮大聖人御書拝読

『諸法実相抄』(御書・六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし 行学たへなば仏法はあるべからず 我もいたし人をも教化候へ 行学は信心よりをこるべく候 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし

『就註法華経口伝』(法華経の註に就いての口伝)
(新編御書・一七七三頁 御書全集・七六〇頁)

第廿五 建立御本尊等の事

御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

〈『御義口伝』現代語訳〉

 大聖人様からの口伝に云く。この御本尊の依りどころとなる文証は法華経寿量品の「如来秘密神通之力」の文である。また、戒・定・慧の三学であり、寿量品の文の底に秘し沈められた事の三大秘法を顕したものである。このことを日蓮は霊鷲山において面授口決した。本尊とは末法出現の法華経の行者の一身の当体である云云。

 

○口伝=文字に書いて伝えるのではなく、言葉で伝え授けること。口訣・口決(くけつ)相承。面授(めんじゅ)相承と同意。

○『御義口伝』=『就註法華経口伝』のこと。『日興記』ともいう。
『御義口伝』について総本山十七世日精上人が書かれた『家中抄』には、

「聖人山居の後、門弟子の請いにより法華経の御講釈あり。御弟子衆数多ありといえども、日興達士の撰にあたり給いしかば、章安所録の天台の章疏に習って聖人の説法を記録し給ふ事、合して二百二十九箇条、その外度々の聞を集めて日興記と名く。是れ聖人編集の註法華経に就いての口伝なり」(富士宗学要集巻五)

とある。

〈家中抄の現代語訳〉

  日蓮大聖人様が身延山に入山された後、弟子の願いにより法華経を講義された。多くのお弟子の中から、日興上人がその御講義を整られた。中国唐代の天台大師の講義を弟子の章安大師が記録し整えた講義録に習い、二百二十九箇条とした。その外に度々聴聞したものを集めて「日興記」と名付けた。是れは大聖人様が編集された法華経の註に就いての口伝である。

※〈家中抄の語句の意味〉

○達士=ある物事に通じ勝れた人。達人。学問に熟達した人。
○註法華経=大聖人様が御所持されていた法華経一部八巻と無量義経・普賢経合わせて十巻の余白に、一切経や論師・人師の釈を書き入れたもの。日興上人の御遷化記録には「私集最要文注法華経、同じく墓所の傍らに立て置くべし」とある。ところが、五老僧の一人、日昭が勝手に持ち去り、現在は三島市にある身延派の寺院にある。

※〈就註法華経口伝の語句の意味〉

○此の本尊=大聖人様が御図顕された三大秘法の御曼荼羅御本尊様のこと。
○依文=依りどころとなる文のこと。ここでは御曼荼羅御本尊様を御図顕されるにあたって、依りどころとされた文の意。
○如来秘密神通之力=「如来の秘密の神通の力」と読む。朝夕に読誦する寿量品の文。(以下、日顕上人の御指南を拝して)
  中国唐の天台大師が法華経の文を解釈された『法華文句』に「一身即三身なるを名付けて秘と為し、三身即一身なるを名付けて密と為す。又昔説かざる所を名づけて秘と為し、唯仏のみ知ろしめすを名づけて密と為す」として、法華経以前には説き明かされてはおらない仏のみが知る「一身即三身・三身即一身」の教えが秘密であることを示している。三身は法身・報身・応身のことで仏の身をいう。法身は仏が覚った宇宙法界の不思議な法を仏身とするもので、色や形のないものをいう。その法を覚られた時に報身としての仏身が現れる。さらに、衆生の願いに応じて応身としての仏身が現れる。この三身が一身に具わっており、別々ではない、と説かれるのが法華経である。奈良の大仏は毘盧遮那で、華厳の教主とされているが、応身仏のみであり法身と報身は具えていない方便の仏である。また、一身即三身は時間的な表現からなされるもので、修行の経緯で三身が順番に現れるものではないことを示している。これを「不縦(たてならざる)」という。さらに、三身即一身は空間的な表現からなされているもので、報身があればそこには法身も応身も即座に具わっていることを意味する。これを「不横(よこならざる)」という。くり返すが、この一身即三身・三身即一身という不思議な仏の身は、ただ仏のみが知ることであるから「秘密」、また寿量品においてはじめて明かされたゆえに「秘密」とされるのである。
  次の「神通之力」について同じく『文句』に「神通之力とは三身の用なり、神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は是れ無壅(むよう)不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用(かんゆう)自在、即ち応身なり。仏は三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之これを秘して伝えたまわず」とある。これは三身のそれぞれの用きについて示されたもので、~・通・力の文を法・報・応に当てて解釈されている。つまり、法華経で説き明かされた「一身即三身・三身即一身」の仏のみが、すべての人々の帰依すべき根本の仏であること。

○戒定慧の三学=私たちが覚りを得るために必ず修めなければならない実践修行。戒学・定学・慧学のこと。戒学とは戒律で、身と口と意の三業から起こる悪を止めて善を修すること。定学とは心を定めて安静にする禅定のこと。慧学とは、煩悩から起る惑いを破してすべての事柄の真実の姿を見極める智慧を身につけることをいう。具体的には、戒を守り生活を正すことによって禅定を助け、禅定が進むことによって智慧が起こり、智慧によって真理を覚り、その智慧で悪を断ち、生活を正し安定させることになる。その結果が仏道の完成であり成仏の境界である。したがって、この三学は別々にあるものではなく「不離不即」である。この三学は爾前の教えにも説かれるが、伝教大師は「三学ともに伝うるを名付けて妙法という」と述べ、真実の三学は妙法にあることを明かしている。また日興上人が記された相伝書の『上行所伝三大秘法口訣』には、「本門の題目」・「本門の本尊」・「本門の戒壇」の三大秘法を戒・定・慧に配されている。ゆえに、「戒定慧の三学、寿量品の三大秘法是なり」と固く信じ、御本尊様を持ち、南無妙法蓮華経と唱題に励み、折伏の実践を重ねることが三学を修することになる。

○寿量品の事の三大秘法=総本山二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』には「当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」とある。この中の「事を」とは、「文底寿量品の事」のことであり、久遠の昔にあって、南無妙法蓮華経の教えを説きあかされた御本仏のお振る舞いのことである。「事に顕す」とは、その南無妙法蓮華経を三大秘法の御本尊として御建立遊ばされたことをいう。ゆえに「法体(御本尊)」は事である、と仰せなのである。
  従って、この三大秘法の御本尊を持ち、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることで戒定慧の三学を修行することが叶うのである。
○霊山に於いて面授口決せしなり=法華経が説かれた霊鷲山において、釈尊から口伝をもって甚深の法を付嘱されたこと。ただしこれは外用といって、表明上の姿を指しての仰せであり、真実の御内証という一歩深い教えから拝すれば、久遠元初の自受用報身如来様のことを仰せになったものである。
○本尊とは法華経の行者の一身の当体なり=末法に御出現遊ばされた日蓮大聖人様の御当体を、人法一箇の御曼荼羅御本尊様として建立された、ということ。
 『経王殿御返事』では、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書・六八五頁)

とある。
『諸法実相抄』には、

「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」

と説かれる。仰せの意は、「釈迦・多宝等も本仏の導き(用)で仏となった。その根本の仏は南無妙法蓮華経である。『如来秘密神通之力』の『秘密』は『一身即三身・三身即一身』の仏が本仏であることを明かし、『神通』はその本仏の教えによって仏(迹仏)になったことを明かしている。この本仏とは、末法の日本・鎌倉の世に凡夫僧として出現した日蓮のことである。釈迦・多宝等は本仏である日蓮が久遠の昔に導きで仏となった仮りの仏(迹仏)である」と拝せられる。

☆まとめ

 本日拝読の御文は、私たちが信仰の対象とする御本尊様のことについて述べられたものです。つまり、私たちが受持する御本尊様は、久遠元初の仏様が末法に日蓮大聖人様として御出現されて御建立下さったもので、この御本尊様は三大秘法総在の御本尊様であり、この御本尊様を固く持ち、南無妙法蓮華経とお題目を唱え、折伏に励むならば、仏になるための「戒・定・慧」の三学の修行に励むことになります。その功徳として、仏様のお覚りを我が覚りとすることができるようになる、と教えて下さるものです。このように、日蓮正宗の信仰は、修行の元(御本尊様)と結果(功徳)が明らかな信仰です。安心して進みましょう。

 暖冬とは申せ大寒に入ります。寒さに負けることなく南無妙法蓮華経と唱え、あらゆる魔を打ち破ってまいりましょう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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