日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年2月13・14日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

四条金吾女房御書

日蓮大聖人御書:『四条金吾女房御書』(平成新編日蓮大聖人御書・四六四頁)

文永八年(一二七一年)五月 五〇歳

『四条金吾女房御書』 文永八年(一二七一年)五月 (御書・四六四頁)

此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり。闇なれども灯入りぬれば明らかなり。濁水にも月入りぬればすめり。明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ守護し給ふべし。とくとくうまれ候べし。法華経に云はく「如是妙法」と。又云はく「安楽産福子」云云。口伝相承の事は此の弁公にくはしく申しふくめて候。則ち如来の使ひなるべし。返す返すも信心候べし。

(通解)

 この薬をお飲みになれば、(安産は)間違いありません。暗闇であっても明かりを点ければ良く見えるようになります。池の水が濁っていても月明かりによって底まで見えるようになります。明るいことでは日月の光りに勝るものはありません。清浄なことでは蓮華に勝るものはありません。ですから法華経を日月と蓮華に譬え、妙法蓮華経と名付けられたのです。日蓮もまた日月や蓮華と同じです。信心という水が澄めば、衆生の身の上に利益として必ず現れ、守護されます。そのようなわけですから安産であることは間違いありません。法華経には「妙法はこのようなもの」とあり、また「安楽に福子を産む」とあります。これらの口伝えの法門はこの弁阿闍梨に委しく申し含めておきましたので、如来の使いであると思ってお聞きになり、益々強盛な信心にお励み下さい。

〈語句の意味〉

○此の薬=法華経の信仰を薬に譬えて仰せになったもの。
○闇=私たちの迷いや苦しみを闇に譬えられたもの。
○濁水=私たちの濁った心・迷いの心を濁った水に譬えたもの。
○利生の月=利は利益。生は私たち衆生。月は仏力・法力。つまり、私たちの信人修行による功徳のこと。
○応を垂れ=応は衆生の心に応えること。垂は寄り添うの意。仏様が私たちに寄り添って下さる意。
○とくとく=漢字では疾く疾く。早く、すみやかに。
○如是妙法=法華経方便品第二の文。「この妙法は真実である」と説かれている。(法華経・一〇一頁)
○安楽産福子=法華経法師功徳品十九の、「安楽にして福子を産まん」との文。(法華経・四八五頁)
○口伝相承=師から口伝えで教えを受けること。
○弁公=六老僧の一人弁阿闍梨日昭のこと。総本山五十九世日亨上人は「承久三年(一二二一年)下総に生まれ、十五歳で出家し比叡 山で修行。建長五年に大聖人様が立宗宣言をされたことを知り、三十三歳の時弟子となった」と記されている。大聖人様御入滅後は、日興上人の御教導に随うことができず、謗法の徒となった。
○則ち如来の使=法華経法師品十九の文。「是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として、如来の事を行ずるなり」(法華経・三二〇頁)とある。仏様の十種類ある呼び名の一つを如来という。ここでは、大聖人様を如来、そのお使の弁阿闍梨日昭と拝する。

〈当抄拝読のポイント〉

四条金吾殿女房が、安産の御祈念を大聖人様に願い出た時に与えられたお手紙で、文永八年(一二七一年)五月に身延山でお認めになりました。末法の御本仏として御姿を顕される「竜の口法難」の約四ヶ月前、未だ御本尊様は顕されておりません。
本日拝読の前の箇所には、

懐妊のよし承り候ひ畢んぬ。それについては符の事仰せ候。日蓮相承の中より撰みい出して候

とあり、安産を願う四条金吾の女房が、「符」を大聖人様にお願いしたことがわかります。大聖人様はその願を受けて、「符」を御下附され、そのさいの心構えを弁阿闍梨日昭に申し含め、当抄とともに届けさせました。
大聖人様は、「どのような秘薬であったとしても、毒を入れたなら薬の効き目はなくなるように、日蓮の教えを疑うならば、せっかくの符も役に立たない」と信仰への確信と、「夫婦そろって強信であるから、産まれてくる子は両親の身と心を受け継いだ、広宣流布のために大切な子供となるので安産は間違いない」と仰せになり、出産を控えて不安な心にある四条金吾夫妻、特に夫人を励まされております。
本日拝読について順に拝してまいります。

《此の薬をのませ給はゞ疑ひなかるべきなり》

私たちが朝夕に読誦する法華経寿量品の中に「是好良薬」とありますように、仏様の教えを薬に譬えます。念仏宗は「阿弥陀経」や「観無量寿経」などが薬であると言います。真言宗は「大日経」が最も貴い薬だと言います。このように各宗で薬はまちまちです。鎌倉時代には、念仏の教えが流行っておりました。幕府の執権から一般の人々にまでその教えが浸透しておりました。ところが、世の中を見ると、災害やそれによる飢饉、疫病、さらには度重なる戦乱等々で人々の苦悩は計り知れないものでした。この現実を前にした大聖人様は、人々は真剣に阿弥陀仏を信仰しているのに、何故苦しみを受けなければならないのだろうか、とお考えになられたのです。そして、私たちにとって本当の薬、効き目のある薬は何れであるか、と真理を探究するために仏道修行に励まれました。当時の仏教の中心となっていた比叡山、また京都や奈良、高野山にも足を運ばれ、諸宗を学ばれた結果、法華経こそが真実の教えであり、末法の人々の病を癒やす唯一の薬であることをお覚りになったのです。そのお覚りから、大聖人様は南無妙法蓮華経を「此の薬」と仰せになり、「飲ませ給へ」と勧めてくださるのです。

《闇なれども灯入りぬれば明らかなり。濁水にも月入りぬればすめり》

提灯のローソクに火を点ければ明るくなるように、また池の水が濁り底まで見えない状況であっても、月の光りがさすことで良く見えるようになる例をあげ、善き縁があれば苦を楽に、迷いを覚りに変えることができる、とされます。

《明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法 蓮華経と名づく》

昼は太陽の光、夜は月の光が一番明るいことから、最高のもの、と言うことです。また、蓮華は濁った水の中で、清く美しい花を咲かせる徳性があります。この徳性を、法華経従地涌出品第十五で「不染世間法 如蓮華在水(世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し)」(法華経・四二五頁)と説かれます。この経文は、過去世の悪業により、生命が濁り生命が濁るゆえに、社会や環境も濁るこの娑婆世界に生を受けた私たちであっても、正しい教えを信仰することで、いつも清らかな命を持ち続ける「功徳」が現れることを教えて下さるものです。大聖人様はこの経文から、「浄きこと蓮華にまさるべきや」と教えて下さるのです。
妙法蓮華経のお題目を唱えることで、私たちの心の奥底に潜む、深くて暗い闇を明るく照らす「日月」の功徳を受け、煩悩に支配された生命の泥沼の中に、清浄な花を咲かせる「蓮華」の功徳が具わるのです。ですから、悩みや苦しみを抱える私たちを救う教えを「妙法蓮華経」と名付けた、と御教示遊ばされたのです。
さらにいえば、闇を知らない者には明るさの有り難さがわかりません。蓮華が清い花を咲かせることができるのは、汚れた水の池があるからです。悩みと言う闇があるから、汚れた娑婆世界だから、私たちは妙法蓮華経を信ずることができます、というお言葉でもあります。私たちは悪業の満ちあふれた人間社会から逃げることはできません。むしろ、この中にあってはじめて清浄な花が咲くことを心に留め、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることが大切なのです。私たちの煩悩は、忌み嫌うものではなく仏道修行においては大切な宝物と捉えましょう。

《日蓮又日月と蓮華との如くなり》

先の文で、「日月と蓮華を妙法蓮華経と名付ける」とあり、ここでは「日蓮は日月と蓮華の如く」と仰せになられます。このことから「日蓮は妙法蓮華経である」と宣言されていることが拝されます。
A「日月・蓮華」=B「妙法蓮華経」とされ、
A「日月・蓮華」=C「日蓮」とのべられます。ゆえに、
B「妙法蓮華経」=C「日蓮」となることが明らかです。 (A=B A=C B=C)
発迹顕本以前の御文ではありますが、ここに「日蓮即妙法蓮華経」、「人即法」を明かされていると拝することができます。御内証の上から、大聖人様即妙法蓮華経の御当体であることを御教示遊ばされる大切な御文です。

《信心の水すまば、利生の月必ず応を垂れ守護し給ふべし。とくとくうまれ候〜返す返すも信心候べし》

純真な信仰を、澄んだ水、穏やかな水面に譬えられ、その水面には月が良く映るように、強信な信仰に応じて仏様がお出ましになり、寄り添って下さるので、安産であることは間違いないが、なお一層お題目を唱えるように、と夫妻の信心を励まされた箇所です。
桜の季節までしばらくは寒い日と暖かい日が交互にやってきます。このようなときには体調を崩しやすいものです。最高の薬である南無妙法蓮華経のお題目を服用し、乗り切ってまいりましょう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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