日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年3月1日永代経/日蓮正宗佛乗寺

『南条後家尼御前御返事』、『春之祝御書』、『減刧御書』
〜日蓮大聖人様が仰せのお墓まいりから、追善供養のあり方を学ぶ〜

【なぜお葬式をするのでしょうか】

お彼岸の月です。追善供養のあり方として、お墓まいりがあります。御書にはお墓まいりについてどのように記されているでしょうか。今月は大聖人様が仰せのお墓まいりから、追善供養のあり方を学びたいと思います。

【大聖人様がお墓まいりについて述べられた御書】

南条後家尼御前御返事 (御書・七四一頁)

法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はかにまいりて候ひしなり

【通解】

 法華経を唱えて臨終を迎えられたと承り、御墓にお参りを致しました。

春之祝御書 (御書・七五八頁)

さては故なんでうどのはひさしき事には候はざりしかども、よろづ事にふれて、なつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、よわひ盛んなりしにはかなかりし事、わかれかなしかりしかば、わざとかまくらよりうちくだかり、御はかをば見候ひぬ(御書・七五八頁)

【通解】

故南条殿とは、長い交誼ではありませんでしたが、さまざまなことに触れて、懐かしく思い出します。また、疎かにはしてならないと思っております。盛年での死別がことのほか悲しく、特に鎌倉より足を運び、墓参りを致しました。

 

○故南条殿=南条兵衛七郎のこと。南条時光の父。文永二年(一二六五年)三月八日に亡くなりました。南条家は
伊豆国南条郷(静岡県伊豆の国市韮山)に住していたことから南条姓を名乗ったと思われます。韮山には南条・中条・北条という地があり、北条に住んでいたのが、北条政子で知られる北条一族です。このことから、源頼朝が伊豆の地で兵を挙げた時、南条家の人々も頼朝を助けたと考えられます。後に鎌倉幕府の政策などを決定した評定所の奉行人として、南条頼直の名があり、幕府での地位が低くなかったこと、南条家と北条家の縁の深さを物語っております。兵衛七郎が大聖人様から頂戴した御書は『南条兵衛七郎殿御書』(御書・三二一頁)一通のみですが、夫人の上野尼や時光が頂戴した御書には「故南條殿」・「故上野殿」等と述べられております。

南条兵衛七郎が入信した正確な年代はわかりませんが、立宗まもなくの頃と思われます。幕府の有力な一族ではありましたが、大聖人様の仰せのままに、それまでの念仏を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えるようになったのです。若くして亡くなられたのは、病がもとであると考えられますから、病が因となっての入信であったかも知れません。そうであれば「このやまひは仏の御はからひか」・「病ある人、仏になるべきよし。病によりて道心はおこり候か」(御書・九〇〇頁)等々のお言葉通りであると言えます。時光に宛てた『上野殿御返事』には、

「故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」(御書・七四五頁)

とあります。刀を手に、何ごとかあれば人の命を奪うのが武士の役目であり悪人とされます。そうであっても、日蓮大聖人様のお言葉通りに、南無妙法蓮華経と法華経の信仰に励んだ功徳は、臨終を良くしました。南条兵衛七郎は、病が縁となって入信し、南無妙法蓮華経と唱え、成仏の姿を表したのです。この臨終の姿で、後家尼を励まし、さらには南条時光の信心を決定したといっても過言ではないと思います。

『減刧御書』 (御書・九二六頁)

此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候。しかれども当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、其の日に一国にきこへ、又かまくらまでもさわぎ候はんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人めををそれぬべし。いまゝでとぶらい候はねば、聖霊いかにこひしくをはすらんとをもへば、あるやうもありなん。そのほどまづ弟子をつかわして御はかに自我偈をよませまいらせしなり。其の由御心へ候へ

【通解】

この大進阿闍梨を亡き六郎入道殿のお墓に日蓮の使として派遣します。昔日蓮の法門を聞いてともに信仰した人たちが、亡くなったとの知らせがあったときには、関東であれば、日蓮が足を運び、墓前において法華経の自我偈を読み追善供養をいたしました。しかし六郎入道殿が亡くなった当時は、日蓮がその地に行くならば、その日のうちに国中が知るところとなり、鎌倉の北条幕府までもが騒ぐことになります。御信心の心ざしが強い人であっても、訪ねたならば人目を恐れなければなりません。そのような訳で、今まで弔わずにいたことに、聖霊が恋しく思っている、そうに違いないと思い、まず弟子を使わして、お墓で自我偈を読ませます。その由をお心得ください。


○大進阿闍梨=日蓮大聖人様のお弟子の名前。詳細は不明。
○六郎入道=橋六郎左衛門入道のことと思われるが詳細は不明。
○関東=相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八ヵ国。

【お墓まいりはお葬式でした】

『南条兵衛七郎殿御書』・『春之祝御書』では、大聖人様が直々に、鎌倉から富士上野まで出向かれ、墓前において追善供養をされたことが述べられております。また、『減刧御書』では、当時の社会情勢から弟子の大進阿闍梨に代参を命じられたことが記されております。
この墓参について述べられた御書から明らかになることは、
@南条兵衛七郎が「法華経の信仰により成仏の姿を表した」こと。
A高橋入道が「大聖人様への御信心が強かった」こと。
B 大聖人様は、亡くなった信徒のために遠路を厭わずに足を運ばれて追善供養をされていたこと。
の三点です。
先ず、当時の墓参について考えてみます。南条兵衛七郎の場合、富士上野に墓地があります。鎌倉と富士上野の距離は、『富木殿御書』(御書・七三〇頁)に、

「十二日さかわ、十三日たけのした、十四日くるまがへし、十五日をゝみや」

とあることから、四日の道程であったことがわかります。この御文は身延に入山される時のもので、十二日に鎌倉を出発され、四日目に、現在の富士宮市・大宮で宿泊されたことを記されておりますので、富士上野までの距離は三泊四日であったと考えられます。決して近い距離ではありません。

【故人の即身成仏のために読経・唱題】

それではなぜ大聖人様は遠方まで足を運ばれて、亡き方のために墓前において読経・唱題をされたのでしょうか。
そのことを知ることができる御文が、『木絵二像開眼の事』です。この中で、

「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり」(御書・六三八頁)

と仰せです。御文の「法華経を悟れる智者」とは大聖人様です。その智者である大聖人様が、亡き方の墓前で読経・唱題をして下さることで即身成仏が決定する功徳を受けることが叶う、と明言されている有り難い御文です。大聖人様にお墓まいりをしていただいた方の悦びは計り知れないものであったでしょう。また、遺族や親族もどれほど安堵し、自らも即身成仏の信仰に励むことを誓ったことは想像に難くありません。その例を南条時光殿に見ることが出来ます。時光は父の信仰を受け継ぎ、総本山大石寺を建立寄進する大檀越になりました。
ひるがえって平成の今日、私たち日蓮正宗は、亡き方のために導師御本尊様お迎えして、読経・唱題をする通夜や葬儀を執り行います。ここに七五〇年前に大聖人様がされた墓参と、現在の通夜・葬儀の儀式が何ら違いのないことが明らかではありませんか。

【強信であれば葬儀は必要ない、という人へ】

南条兵衛七郎さんも高橋入道さんも、大聖人様より折伏を受けた強信者です。あなたはそれ以上の強信者でしょうか。
南無妙法蓮華経と三大秘法のお題目を唱えて臨終を迎えたのですから、即身成仏の功徳を受けています。それでも大聖人様はお墓で読経・唱題をして下さっております。何故でしょう。それは、今日の創価学会の信仰姿勢を誡めるためです。私は南無妙法蓮華経とお題目を唱え折伏をしてきたのだから、必ず成仏する、と増上慢になることを誡めるためです。

信仰において、特に日蓮大聖人様の信仰にあっては、自己中心的なものは成仏の功徳を受けられません。日蓮大聖人様の信仰は、御本尊様が根本になければなりません。総本山第二十六世日寛上人は、

「私たちの成仏は、私たちの信仰の力にあると思ってはなりません。御本尊様の功徳とそのお用きによります」(趣意・『本尊抄文段』)

と明示されている通りです。
以上のようなことから、大聖人様のお墓まいりは、葬儀であり、亡き方の即身成仏をより確かにして、遺族や親族の益々の精進を勧める意義があったのです。
彼岸にあたり、私たちは日蓮大聖人様の教えて下さる追善供養の本義に則り、励んでまいりましょう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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