日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年4月10・13日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

上野尼御前御返事

日蓮大聖人御書:『上野尼御前御返事』 (平成新編日蓮大聖人御書・一五七四頁)

弘安四年一一月一五日  六〇歳

『上野尼御前御返事』 弘安四年一一月一五日  六〇歳(御書・一五七四頁)

 ?牙一駄四斗定・あらひいも一俵送り給びて南無妙法蓮華経と唱へまいらせ候ひ了んぬ。
妙法蓮華経と申すは蓮に譬へられて候。天上には摩訶曼陀羅華、人間には桜の花、此等はめでたき花なれども、此等の花をば法華経の譬へには仏取り給ふ事なし。一切の花の中に取り分けて此の花を法華経に譬へさせ給ふ事は其の故候なり。

 或は前花後菓と申して花は前、菓は後なり。或は前菓後花と申して菓は前、花は後なり。或は一花多菓、或は多花一菓、或は無花有菓と品々に候へども、蓮華と申す花は菓と花と同時なり。一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かゝる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬へば天月の東の山の端に出づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひゞきとの同時なるが如し。

 故に経に云はく「若し法を聞くこと有らん者は一として成仏せずといふこと無けん」云云。文の心は此の経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

【通解】

 精米されたお米を一駄(四斗)、里いもを一俵、亡きお父様の御命日の御供養として確かにお受け致し、追善供養のために日蓮が南無妙法蓮華経とお題目を唱えました。

 仏は妙法蓮華経を蓮にたとえられました。天人の世界では摩訶曼陀羅華、人間の世界では桜の花が貴い花とされております。しかしながら、仏はこれらの花を法華経にたとえられることはありませんでした。全ての花の中から蓮を法華経のたとえとして用いられたのは深い訳があります。

 花には、先に花が咲いた後実を付けるもの、先に実を付けて後に花が咲くもの、多くの花と実を付けるもの、花は一つでも実をたくさん付けるもの、花が多く咲いても実は一つしかならないもの、花が咲かなくとも実を付けるものなど、色々な種類の花があります。その中で、蓮華という花は、花が咲くと同時に実も付きます。法華経以外の経文では、先に修行に励んだ後に、仏に成る功徳が具わる、と説きますので、成仏は定まりません。法華経はそうではありません。手に取れば即座にその手が仏に成り、妙法蓮華経と唱えればその口は直ちに仏です。たとえば月が東の山から昇ったその瞬間に、池の水面には月の光が映るようなものであり、太鼓を叩いた時には、音と響が同時であるようなものです。

 ゆえに、法華経の方便品第二には「もしこの経を聞いた者が有れば、一人として成仏しないものはない」と説かれております。この経文の意味は、法華経を持つ人は、百人いれば百人が、千人いれば千人が、一人残らず仏に成ることができる、というものです。

【解説】

 当抄は、弘安四年十一月十五日、身延から富士上野の地頭・南条時光の母である上野尼に与えた御文です。この時上野尼は、父・松野六郎左衛門入道の命日忌の追善供養を大聖人様にお願いしております。

 上野尼には多くの兄弟がおり、それぞれの立場で追善供養に励んでおりましたが、残念ながら邪宗での追善供養でした。そのような中で、法華経以外の追善供養は謗法であり、お父様を成仏に導くことができない、と確信をもって大聖人様に追善供養を願いでる親孝行な信仰を御教示下さる御書です。昨年十一月の御講で拝読致しましたので覚えていらっしゃると思います。

 本日拝読の箇所では、仏様が私たちを導くために示される「法」を、草花の蓮華に譬える理由が述べられております。

@『日寛上人・当体義抄文段』  (文段集 六三〇頁)

  一には無華有菓。度の木及び一熟の如し。(乃至)一熟の如きは、華あらずして実なる。 いちじく(無花果)。
  二には有華無菓。山吹の如し。故歌『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき』
  三には一華多菓。胡麻・芥子等の如し。
  四には多華一菓。桃・李等の如し。
  五には一華一菓。柿等の如し。
  六には前菓後華。瓜・稲等の如し。
  七には前華後菓。一切の草木、多分は爾なり。

〔当体蓮華と譬喩蓮華〕

『当体義抄』

〔当体蓮華〕

A至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す (御書・六九五頁)

―この上もない尊い理論でさえ名が付けられていない時、聖人は普遍的な真理をお覚りになり、因と果がともに具わっている不思議な法を「妙法蓮華」とされました―

※日寛上人の御指南

B当体蓮華に即ち二義あり。一には、十界三千の妙法の当体を直ちに蓮華と名づく、故に当体蓮華というなり。二には、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名づけ、これを当体蓮華という(文段集六三〇頁)

―当体蓮華に二筋があります。一つはあらゆる法の当体を蓮華と名づけるゆえに当体蓮華といいます。二つには、一切衆生の胸の間にある心臓と肺を蓮華と呼びます。ですから当体蓮華というのです。(一切衆生の身と心(当体)が、そのまま妙法蓮華であることを「当体蓮華」といいます)― ※妙法蓮華=当体蓮華

※天台大師は法華玄義の中で、「法華の法門そのものを蓮華と名づけるのであり、譬として蓮華と名づけたのではありません」と述べているように、法華の法門そのものを当体蓮華とされます。

〔譬喩蓮華〕

C劫初に華草有り、聖人理を見て号して蓮華と名づく。此の華草、因果倶時なること妙法の蓮華に似たり。故に此の華草を蓮華と名づく(御書・六九五頁)

―世界が生まれたときにある草花がありました。聖人がその草花の本質を見きわめて「蓮華」と名付けました。この草花は、花〔因〕が咲いたその時すでに実〔果〕を付けます。これは原因〔修行〕と結果〔功徳〕が同時にであることが分かります。そこで、妙法(当体)の蓮華に似ていることからこの草花を「蓮華」と名付けたのです―

※不思議の一法=妙法の蓮華=当体の蓮華=妙法蓮華のこと(同頁)

○難しく理解し難い妙法蓮華経の教え(当体蓮華)を説明するために、草花の蓮華を用いることが「譬喩蓮華」です。


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