日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年4月28日立宗会/日蓮正宗佛乗寺

諌暁八幡抄・他
〜 御本仏の御慈悲は、我が子にミルクを与える母の心 〜

『諌暁八幡抄』

@ 日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。(御書・五三九頁)

― 日蓮は建長五年(一二五三年)癸丑、四月二十八日より弘安三年(一二八〇年)庚辰の十二月までの二十八年の間、只妙法蓮華経の五字七字を日本国中の人たちに唱えさせようと励むばかりで、それ以外のことはありませんでした。これは、母が子に、乳を飲ませようとする心と同じです ―

と述べられます。

南無妙法蓮華経とご信心を勧めるのは、母の子を思うことと同じである、と大聖人様は教えて下さっております。乳児の体調がすぐれないとき、機嫌の悪いときに母乳を飲ますのに苦労した経験をされたことがあると思います。初めての育児で、子供がミルクを飲んでくれない、と不安に思う新米ママの声を耳にすることもありますように、子供はいつも素直にミルクを飲んではくれるとは限りません。どこか調子悪いのでは、と心配し、あらゆる手を尽くしてミルクを飲ましてくれたお母さんがいて、今の私たちがあることを思いますと、有り難さに頭が下がるばかりです。

さて、そのミルクを飲ませることと折伏は同じである、と大聖人様は仰せです。何も分からなくても、母のミルクを飲めばすくすくと成長するのと同じように、末法の仏様の教えて下さる南無妙法蓮華経のお題目を唱えれば、いつの間にか仏様の心を育てることができ、幸せな人生を歩むことが叶うことが分かっているから、嫌がる相手であっても、ときにはなだめ、ときには厳しく叱ってでも、信心を勧めます。それが本当の慈悲なのです。私たちを育んでくれた親の心に立って見れば、折伏の修行も違って見えます。

《妙法蓮華経を受け持つ功徳》

大聖人様が、妙法蓮華経を私たちに勧めてくださるのは、例えば、法華経の如来神力品第二十一に、

A 私の入滅した後、法華経を受け持ちなさい。法華経を受け持った人は、仏の覚りの心が定まります(趣意)(新編法華経・五一七頁)

と説かれるからです。法華経を受け持つ人の功徳は、仏の覚り得る功徳である、というのですから、嬉しいではありませんか。

《仏様と教と私たちの縁(関係)》

『曽谷殿御返事』に、

B 法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり(御書・一〇四〇頁)

― 法華経は種のようなものです。私たちは種を植える田であり、種を植えて下さるのは仏様です ―

と示されております。私たち衆生と、仏様と、そして仏様が説かれる教と私たちのとの関係を知ることは、成仏の功徳を受ける上からとても大切なことです。

身延山や立正佼成会や創価学会もお題目といえば「南無妙法蓮華経」と唱えます。この南無妙法蓮華経の「南無」は、「帰依」・「帰命」のことで、《仏様》や、仏様の説かれた《教》えや、それらを伝える《僧》(これをらを三宝といいます)を信じ、教えを守り・教に随い・厳かでおかしがたいお徳を仰ぎ守る、と表明することです。したがって、仏様やお経文の前に「南無」を付けることで、仏様やその教えに帰依します、お徳を仰ぎます、と口に出すことであり、心に誓うことになります。ですから、「南無妙法蓮華経」と唱えることは、仏様が説かれた妙法蓮華経の教えに「南無・帰命」する、という意味になります。ちなみに、妙法蓮華経は法華経の正式な呼び名です。

ところが、『上野殿御返事』では、

C 今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし (御書・一二一九頁)

― 釈尊が入滅されて二千年が経過した末法では、余経である阿弥陀経や般若心経などの経文も法華経も、私たちにとっては覚りを開く教とはなりません。南無妙法蓮華経の教こそが覚りを開く教えです ―

と述べられます。阿弥陀経や般若心経などの法華経以外の経文ばかりか、法華経さえも、現在の私たちとっては縁のない教であることを知らねばなりません。

そこで、末法の私たちにとっては大聖人様の南無妙法蓮華経が大切であることを、『観心本尊抄』では、

C 彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり(御書・六五六頁)

― 法華経は過去に受けた仏になる種が実を結ぶためには必要な教です。南無妙法蓮華経は、過去に仏になる種を植えられていない人々のために、仏の種となる教です。法華経如来寿量品第十六の一品と、従地涌出品第十五の後半部分と、分別功徳品第十七の前半部分の一品二半は、仏種を受けた者にとっては覚りを開く教となりますが、仏種を受けていない者にとっては、ただ南無妙法蓮華経のお題目が覚りを開くただ一つの種であり教えです ―

と示されております。釈尊が説かれた法華経は、過去世に仏になる種を受けた人々に取っては大切な意味がありますが、末法の私たちは過去世に仏になる種を受けておりませんから、法華経では覚りを開くことができないのです。ゆえに、私たちのために南無妙法蓮華経という佛の仏の種を植えてくださり、南無妙法蓮華経と唱えることで、仏様の覚りを私たちも同じように覚れることを教えて下さっております。

ですから、『三大秘法抄』で、

D 今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり(御書・一五九四頁)

― 末法の現在、日蓮が唱える南無妙法蓮華経は、釈尊や天台大師などが唱えた南無妙法蓮華経とは違い、自身と他者の幸せが実現する南無妙法蓮華経です ―

と仰せになるのです。前の代・歴史上の過去にあって、妙法蓮華経を説かれたり・唱えた方々はおられましたが、日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経とは違うものでした。その違いは「自行」、つまり自らだけが南無妙法蓮華経と唱えるのではなく、他の人たちにも勧め、ともに南無妙法蓮華経と唱えることにあります。

この南無妙法蓮華経を、建長五年(一二五三年)四月二十八日に唱え出され、今年は七百六十四年めにあたります。大聖人様が御書の中で、日蓮大聖人様が打ち立てられた「独自の南無妙法蓮華経」であることを繰り返し述べられていることに頬被りをして、釈尊の教にしがみついていたのでは、決して仏様のお覚りを我が覚りとすることはできません。また、創価学会のように、日蓮正宗の御法主上人であられる総本山二十六世日寛上人の御本尊に似せた池田大作氏作成の本尊に「南無」することも、御書に反する大謗法であることは言うまでもありません。身延派も立正佼成会も、創価学会や顕正会も「南無妙法蓮華経」と同じように唱えますが、全く違うものであることを知り、正しいものと誤ったものとの区別をつけなければ幸せになることは絶対にできません。

幸いにも私たち日蓮正宗富士大石寺の信仰を持つ法華講衆は、唯授一人の血脈を御所持される御法主日如上人の御指南のまま、精進をすることが叶っておりますので、大聖人様が唱えられた南無妙法蓮華経を唱えることが出来ます。そして、仏様のお覚りを、私たちも共にすることが叶うのです。

本日の立宗会に参詣された功徳を確信し、母が子に乳を飲ますような心で、未だに御本尊様に縁のない方々に、大聖人様の教えを伝える折伏に励みましょう。

新緑が目に飛び込んでまいります。草木が人界の私たちに「生きることの素晴らしさ」、「涌き出る生命力」を教えてくれているのではないか、と思ったりします。さわやかな季節を迎えました。この季節にふさわしい、さわやかなご精進をお祈りいたします。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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