日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年4月3日広布唱題会/日蓮正宗佛乗寺

兄弟抄
〜 『悪友・魔』 〜

兄弟抄:平成新編日蓮大聖人御書(九七九頁)

建治三年四月 五五歳

『兄弟抄』 建治三年四月 五五歳 (御書・九七九頁)

 舎利弗・目連等が三五の塵点劫を経しことは十悪五逆の罪にもあらず、謀反八虐の失にてもあらず。但悪知識に値ひて法華経の信心をやぶりて権経にうつりしゆへなり。天台大師釈して云はく「若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」云云。本心と申すは法華経を信ずる心なり。失ふと申すは法華経の信心を引きかへて余経へうつる心なり。されば経文に云はく「然も良薬を与ふるに而も肯へて服せず」等云云。天台の云はく「其の心を失ふ者は良薬を与ふと雖も而も肯へて服せず。生死に流浪して他国に逃逝す」云云。されば法華経を信ずる人のをそるべきものは、賊人・強盗・夜打・虎狼・師子等よりも、当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人々なり。此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり。六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るゝのみならず、妻子と申すほだしをうち、父母主君と申すあみをそらにはり、貪・瞋・癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす。但あくのさかなのみをすゝめて三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれば障碍をなす

【通解】

― 舍利弗や目連等が三千塵点劫・五百塵点劫の間、無間地獄にあって苦しみを受けたのは、十悪罪や五逆罪をおかしたためではなく、また八虐罪をおかしたためでもありません。ただ、悪知識に値って法華経の信心を捨てて権教に移ったためです。天台大師が法華玄義で「もし悪友に値えば本心を失います」と説かれております。この「本心」とは法華経を信ずる心のことであり、「失う」とは法華経の信仰を捨てて他の経を信ずることです。法華経の寿量品には、「良薬を与えても飲もうとはしません」と説かれております。この経文を天台大師が解釈された法華玄義には「本心を失っている者は、決して飲みません。そればかりか、苦しみの中で、生死生死を繰り返し、他国に逃げて行くようなものです」と。ゆえに、法華経を信ずる私たちが恐れなければならないのは、盗賊・強盗や夜討ち・虎や狼や師子よりも、さらに蒙古国から攻められるよりも、法華経の行者を悩ませる人々なのです。この娑婆世界は第六天の魔王の所領です。一切衆生は過去世から現世までその魔王の一族です。魔王は地獄界から人界までの六道に、二十五種類の牢を設け、一切衆生を入れるばかりか、妻や子という手枷や足枷を付け、父母や主君という網を空に張り、貪・瞋・癡の酒を飲ませて、本来具わっている仏になる性分を失わせます。ただ、悪い肴だけを勧めて、地獄・餓鬼・畜生の苦しみの中に入れます。たまたま善き心を起こし、仏道に励もうとしても妨害をするのです ―

 

 建治三年四月に池上兄弟に与えた御文です。私たちの信仰を妨げるのは、「悪友」であり、「第六天の魔王」であると仰せです。第六天の魔王は、私たちの心にある、根本の迷(元品の無明)が顕われたものです。この魔は、あるときには妻子、あるときには父母、あるときには同僚や友人・知人の姿を借りて、正しい信仰に励む私たちの前に必ず顕われます。しかし、その本質は我が心が現れたものであることを忘れてはなりません。「日蓮は第六天の魔王との闘いに一度も退く心はありません」(趣意・『弁殿尼御前御返事』六八六頁)とのお言葉もあるように、御本仏大聖人様でさえ、常に己心の魔との闘いをされたのですから、私たちにあってはなおさらです。幸せ(成仏)は不退の信心にあることを心に留め、半歩でも大丈夫です、前に進みましょう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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