日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年7月10・13日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

盂蘭盆御書

日蓮大聖人御書:『盂蘭盆御書』(平成新編日蓮大聖人御書・一三七五頁)

『盂蘭盆御書』 (御書・一三七五頁)

@盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師子と申し、母をば青提女と申す。其の母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候ひしを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。

A七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味をんじきをとゝのへて、母のくはすくうべしと云云。目連、仏の仰せのごとく行なひしかば、其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。其れによて滅後末代の人々は七月十五日に此の法を行なひ候なり。此は常のごとし。

B目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

【現代語訳】

@盂蘭盆という法要は、仏の御弟子である目連尊者が、慳貪の科によって餓鬼界に堕ちた母親を救ったことからはじまりました。目連尊者は、仏の御弟子の中でも、智慧第一と言われる舍利弗と並び、神通第一と称された方です。その貴いことといいましたら、須弥山に昇る日月のようであり、また大王を左右で支える臣下のようなものです。目連尊者の父を吉懺師子、母を青提女といいました。

A七月十五日に、戒律を守り徳の高い僧侶が十方から集まっている所に行き、さまざまな、美味しくまた珍しい食べ物を供養して、お母様の苦しみを救いなさい、と釈尊に教えられました。目連尊者はその教えに随い(十方の聖僧に)供養したところ、目連尊者の母親は、餓鬼道にあって、一劫という長い長い間苦しまなくてはならないところから救われた、と盂蘭盆経というお経文に説かれております。そのお経文にしたがって、釈尊の滅後の人たちは、七月十五日に盂蘭盆会の法要を執り行うようになったのです。これらのことは世間一般で云われているお盆のことです。

B目連尊者が法華経を信じるこの上もない功徳善根は、我が身が仏になるだけではなく、父母も仏に成りました。さらに、七代前の先祖や七代後の子孫、今生の父母ばかりではなく過去世や来世の無量生の父母も仏に導くことができます。さらに、代々の子息や夫妻やそれに従う人々をはじめ、すべての衆生が地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみから離れ、一人残らず初住・妙覚の仏となります。ゆえに、法華経化城喩品第七には、「私の願いは、この法華経の功徳を、すべての衆生に行き渡らせ、仏と衆生と皆共に仏道を成ずることです」とあります。

《語句の意味》

○目連尊者=多くの釈尊の十大弟子の一人。神通力といって、遙か彼方の出来事を見通したり、遠くまで物を送るような力が一番であったといわれております。智慧が最も勝れていると言われた舍利弗尊者とともに、釈尊のお弟子の中でも徳の高い御方です。この目連尊者の父親を吉懺師子(きっせんしし)、母親を《青提女・しょうだいにょ》といいます。青提女は慳貪(けんどん)と言って、生前たいそうな物惜しみをするひとでした。あるとき托鉢に訪れた釈尊に対して、「私には貴方に供養するものはありません」といって、供養をしませんでした。差し上げる物があるにもかかわらず、物惜しみな心から、供養をしなかった罪で、生まれ変わったところは《餓鬼界》と言う罪の報いを受けたのです。食べ物も飲み物もないたいそう苦しい餓鬼界に生を受けている母親を救うために、目連尊者が、安居の明ける日に、一カ所に集まっている多くの聖僧に、百味の飲食をお供えすることによって青提女の餓鬼界の苦しみは救われたのでした。

○七月十五日=インドの雨期の明ける日が七月十五日とされております。インドの季節は、雨期と乾期に大別されます。雨期は四月十六日から七月十五日までとされ、この期間、僧侶は外に出ることなく、一定の場所に集まって罪を懺悔すると共に、仏の教えを学ぶ年中行事がありました。この年中行事を《安居・あんご》といいます。この安居が終了する七月十五日に、百味の飲食を用意して僧侶に供養することで、餓鬼界の苦しみから逃れることができる、と盂蘭盆経に説かれていることから、七月十五日が《盂蘭盆会》が始まりました。遙か三〇〇〇年の昔には、釈尊のもとで目連尊者が、七百五十年前には、日蓮大聖人様のもとで四条金吾や富木常忍が父母や御先祖のことを思って追善供養に励んでおりました。今の私たちも、同じお盆の修行に励んでいるのです。有り難さと不思議な心持ちです。

○百味の飲食=百は多くのもの、種々のものの意。飲食は飲み物や食べ物。そこから、たくさんの美味、珍味を仏前や僧侶にお供えすることを意味するようになった。日興上人の「曾禰殿御返事」には「曾禰殿が富士の珍しきもの」を御供養したことが記されております。これも《百味の飲食》の御供養です。
現在でも、蓮の花に果物やお菓子などを載せて仏前やお墓にお供えする風習が残っております。スーパーマーケットでも、籠に紅白の砂糖菓子やバナナやリンゴなどを盛り、セロハンで包まれたものが、「お盆のお供え」として売られています。これなども現代風の《百味の飲食》であるといえます。
私たちも、お盆にあたっての御本尊様へのお供えには、常日頃のお供えに、もう何種類か増やして、《百味の飲食》になぞらえてもよいと思います。

○初住・妙覚=天台大師の説かれた法華文句には、寿量品の「我本行菩薩道」を釈尊の初住の位であるとしております。大聖人様はその意を取られ、法華経を退転しない立場として示されております。その初住の位から仏様の覚りの位である妙覚にいたります。文底の法華経では、このような順番を経ることなく、南無妙法蓮華経と唱えたとき、すぐさま仏になることができます。

《常盆常彼岸の宗旨》

日蓮正宗は「常盆・常彼岸」の宗旨と古来より称され、念仏宗や禅宗に籍を置いている近隣や親戚の人たちから
一目置かれていた、と聞いた事があります。私たちが毎朝毎晩勤行をして御先祖の御回向する修行の姿を、「常盆・常彼岸」と言う言葉で他宗の人たちが羨ましがった言葉です。しかも、自分の御先祖だけではなく、「某先祖代々並に当宗信仰の面々・内得信仰の面々・各々先祖代々の諸精霊、追善供養証大菩提の為に」とありますように、日蓮正宗の信仰をしている同志の御先祖の御回向も含まれます。さらに、「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」といって、「法界」つまり全宇宙、全世界に私たちの信ずる御本尊様のご利益が平等にいきわたり、貴方も私も倶(とも)にに仏様の心に成れますように、と御祈念をするのが日蓮正宗です。日蓮正宗の信仰が最高であることは、この勤行という化儀と、常に総本山やお寺に参詣し、自他共の幸せを願って行動する実践の両面からもお分かりのことと思います。
佛乘寺にご参詣の皆さま、大聖人様が教えて下さったことを忠実に守り、未来に伝える宗旨に身を置いた功徳を信じ、暑い夏を迎えますが、「清涼の池」を心に抱いて、実りの秋を楽しみに過ごしてまいりましょう。

 


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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