日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成28年8月13・14日日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

白米一俵御書

日蓮大聖人御書:『白米一俵御書』(平成新編日蓮大聖人御書・一五四四頁)

『白米一俵御書』 (御書・一五四四頁)

白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいをもってわざわざをくられて候。
人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。経に云はく「有情は食に依って住す」と云云。文の心は、生ある者は衣と食とによって世にすむと申す心なり。魚は水にすむ、水を宅とす。木は地の上にをいて候、地を財とす。人は食によって生あり、食を財とす。いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてゝ候財もいのちにはかへぬ事に候なり。さればいのちはともしびのごとし。食はあぶらのごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。

《白米一俵の御供養・題号の由来》

 毎日暑い日が続いております。この暑さに負けないで、宗祖日蓮大聖人様に、御報恩・感謝の心で御参詣になった皆様に、煩悩の苦熱が取り除かれ、清涼の池に入ることのできる功徳が具わります。暑い中、遠いところ、忙しい折、病を得る、お小遣いが等々の、御講に足を運ぶ妨げが大きければ大きいほど、功徳も大きくなります。高いハードルを越えた喜びは今日の皆様の命の中にあります。この後三十分ほどです・ご清聴下さい。

 さて、本日拝読の御文に『白米一俵御書』という題号が付けられたのは、この冒頭に由来していることがお分かりになったと思います。このように、御書に述べられている事柄から題号が付けられたものには、『盂蘭盆御書』や『種々御振舞御書』などがあります。当抄の別名を『事理供養御書』といいますが、それも内容に即しての呼び名です。『上野殿後家尼御返事』・『南条兵衛七郎殿御書』・『富城殿女房御消息』などは頂いた方の名前から付けられました。これらは後世の人が付けたものです。

 大聖人様御自らがお付けになったものには、『立正安国論』や『開目抄』、さらには『観心本尊抄』などがあります。
当抄の対告衆、つまりお手紙をいただいた方ですが、宛名がございませんので何方であるかはっきりとしておりません。御真蹟が総本山に格護されておりますことや、内容からして南条時光殿である可能性が非常に高いと思います。

 それでは、冒頭の御文から順に拝してまいります。

白米一俵・けいもひとたわら、こふのりひとかご。

と御供養の品々について記されております。白米は精米をしたお米、一俵は三十キログラムとされております。御在世当時の白米は今日の白米とは桁違いに貴重なものでした。私たちは、お米屋さんやスパマーケットで比較的容易に白米を手に入れることができます。その感覚で「白米一俵」と拝すると、御供養の貴さに気づかないこともありますので注意が必要です。

 そもそも、私たち日本人が、平等にお腹一杯白米を食べられるようになったのは、第二次大戦後のたかだか六〇数年前である、といわれます。事実、昭和五十六年六月まで米穀配給通帳が残っておりました。

 戦前は米作農家でも、白米をお腹一杯に食べることができませんでした。腹一杯白いご飯を食べたい、という欲望は、狭い日本から広い海外に、と南米や北米に新天地を求める移民政策となりました。おおくは政府間の話し合いのもとに行われましたが、満州への移住は、軍事力を背景にした有無を言わさぬものでしたから、今日に至るまでさまざまな遺恨がのこるけっかとなっています。

 そのようなこと念頭にして七百年前の「白米一俵」を考えること、ここで大聖人様が仰せ下さる意味がより一層心に染みます。玄米から白米にする手間も、今の私たちの想像を絶するものがありました。

 つぎの「けいも」といいますのは山芋のことです。山芋には根というのでしょうか髭のようなもの、毛のようなものがついておりますことがら「毛芋」と呼ばれておりました。この山芋も掘るのが大変です。本山周辺の山は、少し掘ると火山岩の層になっております。山芋はその岩と岩の間に生えておりますので、折らずに掘るには、根気と力が必要です。

 「こふのり」は「川海苔」のことです。総本山の西側に芝川という川があり、そこでとれる川海苔を「シバカワノリ」と呼んでいます。このノリのことで、現在は幻のノリ、といわれております。この川海苔が生育する条件として、土地の人から、一、水温は年間を通して八度から十五度の間であること。二、川の流れが秒速一メートルから一.五メートルくらいあること。三、日当たりのよいこと。四、水深が三十センチ以下等々の話を伺ったことがあります。これ以外にも、澄んだ水であることは絶対の条件である、と強調されていました。秋から冬にかけて取れたものが特に美味しいそうです。

 このノリを一篭です。南条時光さんが、大聖人様に召し上がって頂くために、冷たい水の中に入って、水中の岩に付いているノリをはがし、持って帰って庭で干している姿を思い浮かべると、ただの「川ノリ」とは思えません。

 これらの御供養を、

 御つかいをもってわざわざをくられて候。

とあります。この御文から、南条さんとおぼしき方が、この御供養のために、使を特別に仕立ててお届けしたことがわかります。また、お米一俵とかノリを一篭、と詳細に記されるのは、使の方への大聖人様のご配慮です。途中で、お米を猫ばばなどしておりません。ノリを半分食べてしまったりしておりません。お使いの方は立派に役目を果たしております、というお使いをした方へのお心遣いがこの部分です。

《食は命を護る財》

 人にも二つの財あり。一には衣、二には食なり。経に云はく『有情は食に依って住す』と云云。文の心は、生ある者は衣と食とによって世にすむと申す心なり。魚は水にすむ、水を宅とす。木は地の上 にをいて候、地を財とす。人は食によって生あり、食を財とす

 私たち人間が生きる上で、衣食は欠かすことができません。何故「衣」や「食}が財なのでしょうか。我が身を覆う衣服はただ身を守るだけではなく、恥を隠す役目もあります。つまり身心ともに守るのが「衣」だからです。次の「食」が大切であることはいうまでもありません。お金があれば、「衣類」も「食べ物」も手にすることのできる現在では、「お金こそ財」と思いがちです。しかし、文永十一年五月十七日の『富木殿御返事』には、

  けかち申すばかりなし。米一合も売らず。(御書・七三〇頁)

とあり、飢饉で一合の米も買うことができない様子が述べられております。お金がないわけではありません。飢饉で買うことができないのです。ここでも御書を拝する上で、鎌倉時代と現在の経済状況や物流の違いを少しだけでも理解しておくことが大切だといえます。

 次に挙げられる経文の出典は不明ですが、大聖人様は経文の意味を、「私たち人間の命を長く伸ばすことができるのは、食物と衣類があるからです」と命と衣食の関係を述べられ、「食物や衣類の大切なことを説かれたものである」と教えて下さいます。さらに、魚は水がなければ死んでしまう、木は土がなければ枯れてしまう、それと同じように、私たちにとって、生命を維持する役目をはたすのが「食」であり、それこそが財である、と仰せになります。

《宇宙全体の財を集めるより一人ひとりの命が貴い》

 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界無有直身命ととかれて、三千大千世界にみてゝ候財もいのちにはかへぬ事に候なり。 

 前段で、命を維持する「食」が財である、とされました。ここでは、財の中の財は「命」であると述べられます。命は他の財と比べることのできないものである、唯一無二のものである、相対的な財ではなく、命は絶対無上の財である、というお言葉です。そのことを経文を引かれて教えて下さいます。この部分は、「三千界に遍満する身命に直するもの有ること無し」と読みます。これを大聖人様は、「三千大千世界という全宇宙に遍満している財物を集めても、一人の命の値に勝ることはない」と解釈されております。つまり、金と銀、一億円と一兆円などと比べるのではなく、比較できない絶対的な財が「命」なのです。

《貴い命・財をまわりの人たちのために用いよう》

 大聖人様が「私たち一人ひとりの命は、全宇宙で最も貴い財である。我が命こそ最高最大の財である」と仰せになり、弟子檀那に、「無上の財を持っていることを自覚しなさい、その財を無為に埋もれさしてはなりません、自らと他のために用いることが、真の仏道修行であり、その修行によってさらに命は輝きを増すのである」と教えて下さるのは、皆平等に幸せになる可能性を秘めているにもかかわらず、そのことに気づかない人があまりにも多いからです。

 いくら貴い財であっても蔵の中にしまっておいたのでは「宝の持ち腐れ」です。そこには命の躍動も歓喜もありません。躍動も歓喜もない命は死人の命と同じではありませんか。

 死人と同じような命でいたいとは誰も思っておりません。皆、躍動する命、歓喜あふれる命でありたいと願っているのです。願ってはいてもその方法がわからないことから、占いや怪しげな宗教に頼り、ますます命を停滞させる悪循環から抜け出すことができなくなっております。

 そのような末法の私たちに、日蓮大聖人様は、『御義口伝』では、

 南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり。(御書・一八〇一頁)

と、私たちに歓喜の命、躍動する命を獲得する方法を教えて下さっております。ただし、そのためには、『三大秘法抄』に、

 末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。(御書・一五九五頁)

にありますように、自らのためとまわりのために唱える南無妙法蓮華経でなければなりません。換言すれば、折伏こそが、歓喜の命、喜びの命を獲得する方法であることがわかります。

 暗い顔、生気のない命では対人関係も良くなるわけはありません。仕事がはかどるわけがありません。商売が繁盛するわけがありません。病気が良くなることなど決してないでしょう。それらを解決したいのなら、大聖人様の御言葉を素直に信じ、我が命は最高の財であると自覚し、その自覚を周りの人たちに伝えるとき、我が命は躍動する命、喜びの命に変わります。そこに、病の悩み、対人関係の悩み、仕事上の悩み、経済的な悩みなど、一切を解決する不思議な姿が現れるのです。

『可延定業御書』でも、

 一日の命は三千界の財にもすぎて候なり。(御書・七百六十一頁)

と述べられております。南無妙法蓮華経と御題目を唱える私たちの命の貴さを、一日長生きするだけでも全宇宙の財物を集めた価値よりも勝れている、と病を得た富木殿の女房に教示されております。

 このように大聖人様が仰せ下さる、比べようのない唯一無二の貴い財を自在に用いて、自らと周囲の人たちの幸福境界実現を目的として進むことが、財物を有効にかつ効率的に用いることになります。おわかりのように、この財は目減りすることのない財です。使えば使うほど反対に増えます。ですから、「一切の財の中に第一の財」と大聖人様の御言葉なのです。不思議な財をもっともっと増やし、佛乗寺檀信徒全員で、

 仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり(『四菩薩造立抄』御書・一三六九頁)

を目指そうではありませんか。

《命と食》

 さればいのちはともしびのごとし。食はあぶらのごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。

とのご言葉は、大切な命も食がなければ絶えてしまうことを、灯火と油の例を引かれて説示されます。白米等の御供養によって、仏の命を護るのであるから、白米等の御供養をする貴方が、仏の命を護っていることになる、と讃えられる部分です。さらに御書を拝しますと、『食物三徳御書』には、

 食には三つの徳あり。一には命をつぎ、二にはいろをまし、三には力をそう。人に物をほどこせば我が身のたすけとなる。(御書・一三二一頁)

とあり、食物によって命を維持し、健康な身体で活動を展開する力を得ることができる、さらにその食物を人に施すことで我が身を助けることになる、とより明らかな御教示があります。この御文から、白米や毛芋やカワノリを御供養したことで、大きな功徳が受けられることがわかります。

《最後に》

 当抄の後半部分に「白米は白米にあらず、すなわち命なり」と述べられております。人にとって大切な財である白米の御供養は、全宇宙の財を集めるよりも貴い無上無比の「命」を護り永らえることができるものです。しかも、御供養を申し上げた先は、末法の御本仏日蓮大聖人様です。そこで、「白米はたんなる食物の白米ではなく、命そのものである」と仰せになるのです。御本仏の命をささえ御護りする修行と、私たち一人ひとりの命の貴さを当抄から学ぶことができます。

 暑い季節はまだまだ続きます。命を枯らすことのないように、しっかりと食べて水分を補給し、三千大千世界の財物よりも貴い我が命、と自覚し進みましょう。

 落ち葉の中に、ほんの少しですが秋がまざってきております。美味しい新米を思い浮かべ、暑さを乗り切ってまいりましょう。

 


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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