日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成29年4月 日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

日女御前御返事

日蓮大聖人御書:『日女御前御返事』(平成新編日蓮大聖人御書・一三八八頁)
弘安二年八月二三日 五八歳

『日女御前御返事』(御書・一三八八頁)

 此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす。

【現代語訳】

 (末法の始めに出現した)この御本尊様の(功徳を受けられるのは)、御本尊を信ずる心によります。法華経の譬喩品第三で「信ずることで悟りに入ることができる」と説かれているのはこのことです。日蓮の弟子檀那等は、法華経方便品第二に、「方便(仮り)の教えである爾前権教を捨てて、正直な(真実の)教えである法華経を信じなさい」と説かれ、同じく譬喩品第三に、「法華経以外の教えを一言でも受けてはなりません」との教えをただ一つのものであると信ずることによって、この御本尊様の宝塔の中に入ることができます。頼もしいことです、頼もしいことです。どのようなことがあっても、後生のことを心がけるべきです。穴賢(恐れ多いことです)
  南無妙法蓮華経だけを唱へて仏に成ることが最も大切です。(仏に成ることができるかそうならないかは)信心が厚いか薄いかで決まります。仏法の根本は(御本尊様を)信ずる心が源です。

◇対告衆の日女御前とは

 当抄の対告衆である日女御前は、下総(千葉県北部)に住んでいた平賀忠晴の娘で、池上兄弟の兄である池上右衛門大夫宗仲の妻とも、静岡県富士川町に住んでいた松野殿の娘ともいわれております。残念ながら詳細は明らかでありません。頂いた御書から、厚い信仰であったこと、高い学識をもっていたこと、経済的に恵まれていたこと等が知れます。

◇御書名である『日女御前御返事』について

 『日女御前御返事』と名付けられた御書が二通あります。その内容から一通を『品々供養御書』、もう一通を『多宝塔中本門本尊事』と呼んでおります。『品々供養御書』は、二月一日の御経日に拝読をいたしましたが、弘安元年六月二十五日にお認めになられたものです。日女御前が法華経の二十八品を、一品ごとに供養しようと願ったことに対して、その心ざしをお誉めになり、法華経の嘱累品二十三から普賢菩薩勧発品二十八までの大意とその功徳を述べられ、日女御前の貴い信仰を讃えられております。

◇当抄『日女御前御返事』の概略

 前述しましたように当抄は内容から『多宝塔中本門本尊事(たほうたっちゅうのほんもんのほんぞんのこと)』と呼ばれております。日女御前が御本尊様に御供養をされたことに対する御返事です。おおよそ次の六点に要約することができます。

一、釈尊が教えを説かれた五十年の間、法華経の涌出品第十五より嘱累品第二十二の八品のみに、末法流布の御本尊様のことが説き明かされたこと。

二、釈尊滅後千年の間には「本門の本尊」の名前もなく、顕す人もいないことと、天台や妙楽はそのことを知っておりながらも、その役目ではないので言葉に出すことはなかったこと。

三、末法の始めに御本尊様が出現されることと、その御本尊様を顕されるのが日蓮大聖人様であること。

四、末法に出現する御本尊様のお姿について示される。
その中で、御本尊様の中央に南無妙法蓮華経のお題目が認められ、釈尊や多宝如来の仏界の衆生、上行菩薩等の菩薩界、舍利弗等の二乗界の衆生、また、三悪道である畜生界・餓鬼界・地獄界の衆生等をお認めになられていることを述べられ、十界互具・一念三千の御曼陀羅御本尊様のお姿を明らかにされる。

五、御本尊様の仏力・功徳(法力)を、「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる」と御教示される。また、御本尊様のことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)では、「曼陀羅(まんだら)」といい、漢語では「輪円具足(りんねんぐそく)」とも「功徳聚(くどくじゅ)」ともいうことを挙げられ、功徳を集めたこの御本尊様を供養することは、現世では幸せになり、生まれ変わった世では御本尊様の御加護を賜ることができることを御教示になる。

○《本有の尊形》

 ここで示されます、「本有の尊形」について拝してみます。「本有」は「ほんぬ・ほんう」と読みます。本来、はじめからその状態にあること、もとからずっと、あたりまえ、生命の中にはじめから具わっている徳、等の意味です。本有に対する言葉として「修生・修成」などがあります。文字通り、修行をして修練を重ねて具わったもの、という意味です。

 「尊形」は、尊い形、尊い姿、すぐれた形の意味です。したがいまして、本来のありままの姿が尊く優れていることを「本有の尊形」と大聖人様は仰せになるのです。
 その尊い姿・形が「妙法五字に照らされて」本質が明らかになる、と大聖人様は教えて下さるのです。つまり、地獄界から仏界までの衆生に、それぞれ平等に南無妙法蓮華経のお題目の光りがあてられ、お題目の光りに照らし出されることで、それぞれの生命に本来具わっている良き用きが表面に現れ、その徳を発揮し用いてゆくことができる、との御言葉なのです。
 私たちに具わる悪しき心とされる貪瞋癡の三毒を例をとれば、貪りは向上心、瞋は正義の心、愚かは我が心を深める心、自省の心と現れます。この一例からも、悪しき心、悪しき用きであっても、妙法の光に照らされて、良き用きに変わることを、「妙法五字に照らされて、本有の尊形になる」と仰せ下さるのです。

○成仏の功徳は、信心の厚薄による

六、当抄の結論部分が只今拝読をした御文で、御本尊様の功徳を受けることができるのも、御本尊様を信ずるからであり、御本尊を受持してお題目を唱え、折伏の修行に励むことが最も大切なことである、と最後に述べらます。
そのことを「信心の二字におさまれり」とも「以信得入」とも示されます。釈尊のお弟子で智慧が最も勝れていたといわれる舍利弗尊者であっても、仏様の覚り(成仏)を得ることが出来たのは、舍利弗自身の智慧の力ではなく、仏様の教えを信ずる心でした。ですから、仏様の覚りを得るには、疑わない心が大切であることを、「信心の二字におさまれり」と述べられるのです。

 また、信ずると言っても、自らの心を中心にした信ではありません。闇雲に信ずるのではありません。何でもよいから信ずるのではありません。仏様の真実の教えである法華経を「無二に信ずる」ことが肝心要です。別の言葉では「一筋の信心」と大聖人様は教えて下さっております。法華経一筋、御題目一筋、御本尊様一筋、総本山一筋の信仰が「無二に信ずる」ことです。

 その信心であれば、「御本尊の宝塔の中に入るべきなり」とたいへんに有り難い成仏の功徳を教えて下さいます。想像してみて下さい。私たちの生命を、御本尊様の中に入れて頂けるのです。御本尊様と我が命が一体となることが叶うのです。まことに頼もしいことであり、これ以上の有り難いことはないではありませんか。
 大聖人様の仰せを信じて「無二」に励むことで、私たちに確実に訪れる来世・死後の世界を良くすることができる、との御言葉を励みとしましょう。

○《信心を厚く、面の皮は薄く》

 信心が厚いか薄いかは御本尊様のみがご承知です。私たちは、ただ御本尊様を信じて唱題を重ね、大聖人様からの唯授一人の血脈を御所時遊ばされる、御法主日如上人の御指南を根本に、折伏に励めば、御本尊様・大聖人様から「厚い信心です」とお誉めの言葉を頂戴することができます。現世と、来世のために、信の心を厚くしてまいりましょう。
 面の皮が厚いのは誉められませんが、信心の厚いのは今生の宝です。来世を飾る厚き信を磨いて参りましょう。

以上


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日蓮正宗向陽山佛乗寺

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