日蓮大聖人御書

日蓮大聖人御書講義・法話集:平成29年6月 日蓮大聖人御報恩御講/日蓮正宗佛乗寺

三三蔵祈雨事

日蓮大聖人御書:『三三蔵祈雨事』(平成新編日蓮大聖人御書・八七七頁)
建治元年六月二二日 五四歳

『三三蔵祈雨事』(御書・八七七頁)

 すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。是偏に末代の今の世を表するなり。敢へて人の上と思し食すべからず。

【現代語訳】

  須梨槃特は三年かかっても、十四文字のお経を覚えることが出来ない愚か者でしたが、仏に成ることが出来ました。提婆達多は六万種もあると言われるバラモンの教典を暗記するほどの高い能力がありましたが無間地獄に堕ちました。この二人の例は、末法の衆生の姿を表しております。敢えて他人のことと思ってはなりません。

【三三蔵祈雨事について】

  今月の御書は『三三蔵祈雨事』です。この御書は今から七百四十五年前の、建治元年(一二七五年)六月二十二日に身延山でお認めになられ、富士郡芝川の西山入道に与えられたものです。この時大聖人様は五十四歳でした。

  旧暦の六月は大暑の月です。今年の大暑は七月二十三日ですから、梅雨が終わり雨が降らない真夏の入り口にあたっております。六月を水の無い月・水無月(みなずき)といいますが、「水無月」の「無(な)」は連体助詞の「な」で、「水無月」は「水の月」の意味になるそうです。田植えが終わったこの時期、田圃には水が欠かせませんので、「水が大切な月」の意味で、「水の月」と呼ぶようになったそうです。

  そのような時期に、『三三蔵祈雨事』が認められました。「祈雨」は、雨が降りますように、と神仏に祈ることです。西山入道の住んでいた当時の富士郡芝川周辺では、空梅雨かなにかで水不足だったのかも知れません。

  ただ、この御書の中の雨乞いは、芝川ではなく中国でした。三人の三蔵が懸命に祈りましたが、雨は降らずに暴風が吹き荒れました。三人の僧侶は中国真言宗の善無畏・金剛智・不空です。お経文と、仏の定めた戒律と、それらの註釈書である論の三つに精通した僧侶を三蔵と云います。当抄の題号には「三人の真言宗の僧侶が雨乞いをしました。しかし雨は降りませんでした。何故ならば間違った真言宗の祈りだったからです」という意味が込められております。

  大聖人様は、暴風が吹き荒れ人々が苦しむようになったことを、「真言亡国(しんごんぼうこく)」の現証である、と厳しく指摘をされております。「真言亡国」の「国」と「家庭」を入れ替えますと、「真言亡家庭」となります。真言宗の信仰をしていると、国だけではなく、家や家庭が亡びる現証は、他人事ではありません。間違った信仰をする事の怖さを忘れないためにも、当抄は大切な意味があります。

  また、末法の私たちが功徳を受けられる「誤りのない教え」、「真実の教え」は法華経であり、法華経の教えを実践される日蓮大聖人様の言葉を信じる者は必ず成仏の功徳を受けられる、と教えて下さっております。

  その例として、自分の名前さえ覚えることができな愚かな身でありながら、仏様の教えて下さったことを素直に聞いて実践をすることで成仏を遂げた須梨槃特と、六万蔵という数え切れないほどの分量がある、バラモンの教典を暗記する能力を持ちながらも、生きたまま地獄に堕ちた提婆達多を挙げておられます。

  末法の正法である南無妙法蓮華経を信じることで、たとえ能力・理解力が劣っていたとしても、必ず成仏が叶うこと、反対に勝れた能力が具わっていても、誤った教え、自己の考えだけでは成仏が叶わないことを、この須梨槃特と提婆達多の事から学び、私たち一人ひとりの身にあてて、次の御書を心肝に染めることが肝要です。

「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たゞあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひせちなり」(『三三蔵祈雨事』 御書・八七三頁)

  仏様からすれば、提婆の智慧も所詮は「我が智慧なにかせん」なのです。私たち凡夫の智慧は、熱いとか冷たいとかを知ることは出来ても、一秒先のことも知ることは出来ません。まして遠い未来のことなど知る術もありません。凡夫の浅はかな智慧を大切するのではなく、自己の心を中心とするのではなく、仏様のお心を持つ人、仏様のお遣いである「善知識」頼りにし「大切なり」との信仰が私たち日蓮正宗の信仰であることを自覚すれば、罪障消滅が叶い、仏の境界を開くことができるようになります。能力・頭が良いとか悪いとかではなく、御本尊様を信ずることが大切である、とのお言葉を互いに忘れないようにいたしましょう。

【語句の意味】

○須梨槃特=周利槃特ともかく。釋尊の弟子。兄の摩訶槃特も釈尊の弟子。

  須梨槃特について、『一代聖教大意』には、

  『有智は舎利弗、無智は須利槃特』(御書・九三頁)

  とあり、「仏様のお弟子の中で、知恵が一番なのが舍利弗尊者であり、反対が須梨槃特である」と記されており ます。 

  また、『忘持経事』には、

  「夫槃特尊者は名を忘る。此閻浮第一の好く忘るゝ者なり」(御書・九五六頁)

  とあり、「須梨槃特は自分の名前も忘れるほどの人でした。須梨槃特は、この世の中で、一番忘れ物をする人で す」との述べられております。

  ※植物の「茗荷」の名前の起こりは須梨槃特。

   須梨槃特のお墓に生えた名前のわからない植物に、茗荷と名付けたのは、須梨槃特が、自分の名前を覚えられないので、板に名前を書いて背中に荷っていたことから、名を荷なう、茗荷となったそうです。茗荷を食べ過ぎると物忘れをする、と言われたことを思い出します。これからの季節、薬味には最高なのですが。

○十四字

  「守口摂意身莫犯 如是行者得度世 (しゅくしょういしんまくぼん、にょぜぎょうじゃとくとせ)」

  経文の意味は、嘘をつかず、心を正しく持ち、悪い行いをしなければ(身・口・意の三業を正せば)、安穏な日々  を過ごすことができます、ということです。

○提婆=提婆達多のこと。良くない人の代表としてその地位は不動です。提婆達多は一度は仏の弟子になり修行 に入りました。しかし、自己中心的な性格で、師や周りの人たちの注意を聞くことができなかったようです。修行中 の態度を、釈尊から注意されたことを恨みに思い、退転しました。その後釈尊に敵対し、釈尊の悪口を言ったり 命を狙ったりしました。大聖人様は『観心本尊抄』の中で「提婆達多の姿は地獄界を表している」と御教示です。 自己中心の姿、師に敵対する姿、おごり高ぶる姿は地獄の姿であり、提婆達多である、との意です。

   いうまでもありませんが、仏様を中心にするのが仏教です。自分の心を中心にすると提婆達多になり、その姿 は地獄の苦しみの姿です。おもえば、生気のない顔を新聞でさらしながら、「先生はお元気」と云わせる「元総講 頭池田大作」の現在の姿は、現身に地獄に堕ちた提婆達多を現在に出現させて、私たちに注意喚起を促してい るのだといえます。提婆達多にならぬように、御法主日如上人の御指南を素直に拝して、自己中心の心を打ち破 ってまいりましょう。

   このような大悪人であっても、法華経を信ずることで無間地獄の苦しみを救って頂き、仏の悟りを得たことがお 経文の中に記されております。大御本尊様を誹謗中傷して、無間地獄の中で悶え苦しんでいる池田大作元総講 頭をはじめ、その弟子である多くの創価学会員も、提婆達多と同じように御本尊様に救われるときが必ずまいり ます。私たち法華講員がすることは、その者達の勧誡を願い、御本尊様の下に立ち帰り、地獄の苦しみから救わ れるように祈り行動することです。過去世に傍観をした罪障を消滅するための実践でもあります。

○六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ=六万蔵は六万宝蔵ともいい、インドのバラモン教の聖典です。六万とは数え 切れないほど多くの、という意味が込められております。それほどの教えを暗記していたのが提婆達多ですから、 頭が良く勉強もできたのでしょう。ところが、それでも無間地獄に堕ちてしまった、というのですから、私たちの幸 せ不幸せは、勉強の出来不出来や、頭の善し悪しではなく、正しい御本尊様への素直な信心であることがわかり ます。むしろ、頭が悪い、との自覚は、増上慢よりもはるかに貴いことです。提婆達多にはなりません。

※ 「敢へて人の上と思し食すべからず」

  須梨槃特のことと提婆達多のことを我が身にあてて思いましょう。物語の上、他の人のことではなく、私たち一人ひとりのことです、と大聖人様のご注意を有り難く拝しましょう。

  また、天台大師が著した『摩訶止観』には、須梨槃特のことが次のように説かれております。

『大智度論』では、私たちに等しく具わっている、仏の教えを受ける能力、その教えを受けて仏の道を求める能力をを四種類に分けて功徳を受けられるか受けられないかを説いている。この能力を「機根」というが、一つには、機根がとぎすまされている者である。この者は、的確に本質をとらえることができ、仏の悟りを得ることができる。二つには、機根がとぎすまされていても、仏に成ることができない者。三つには、機根が鈍く、物事への理解が遅いがそれでも仏になれる者。四つには、機根が鈍く物事への理解が遅く仏になれない者。最初の者は最高の人であり、仏の在世では舍利弗などがこれにあたる。このような人は、正しい法を修行することで悟りを開くことができる。また、過去世における功徳により、今世では少しの修行で悟りを得ることができる。二つ目の者は、悪人の提婆達多にそそのかされて、国王である父親を殺すなどの悪事を働いた阿闍世王などがこれにあたる。このような者であっても、正法に縁をすることで悟りを得ることができる。三番目にあたるのが須梨槃特である。身や口や意(こころ)には誤りがなかったが、理解能力が極めて鈍かった。しかし、仏の教えを愚鈍に守ることで悟りを得ることができた。最後は、あらゆる謗法を行い、仏道修行をしない者である。このような者たちが多くの罪障を積んでいる様子は、重病におかされた者が、身体が麻痺して針を骨まで刺しても痛みを感じないのと同じで、多くの悪で身を覆い包んでいるからである(趣意)

  この『摩訶止観』の文は、頭がよいと思い思われている人ほど、地獄に堕ちる確率は高いのですから、注意しましょう。阿闍世王や提婆達多がその例です。反対に、勉強ができない、物覚えが悪い、と思っている人でも、心配はありません。仏様の教えを守る素直な心さえあれば大丈夫です、と愚鈍で怠け者の私たちを励まして下さる天台大師の言葉です。

○須梨槃特余話

  箒といえば、赤塚不二夫の「天才バカボン」に出てくる「レレレのおじさん」を思い出す方も少なくないのではないでしょうか。いつも箒を持って「レレレのレー」といいながら掃除をしております。一説には、「バカボン」は梵語の「ばがぼん」から取ったといわれております。梵語「ばがぼん」の意味は次のようなものです。(デジタル大辞泉)

【ばがぼん・薄伽梵】 《(梵)bhagavatの音写。世尊・有徳と訳す》

1 仏の称号。

2 インドで、仙人や貴人に対して用いる呼称。
仮りに、「バカボン」が「ばがぼん」からの命名であれば、「レレレのおじさん」は、須梨槃特のことではないかと思ったりいたします。来る日も来る日も箒を持ってひたすら掃除をしているのは、『雑一阿含経』に説かれている修行の姿に重なるものです。

【今月のまとめ】

  須梨槃特は自らの名前さえ覚えられなかった、と言われております。その槃特に、釈尊は箒とチリ取りを与え、箒で掃くときには「塵を除き」と唱へ、チリ取りを使うときには、「垢を除かん」と唱えなさいと教えました。ところが、箒を持ったときにはチリ取りのことを忘れ、チリ取りを手にしたら箒のことを忘れる須梨槃特ですから、この言葉を覚えることが出来ませんでした。しかし、仏様の仰ることを素直に信じて掃除を続けました。三年・五年・十年・二十年・三十年と一筋に掃除にを励み、やがて仏の悟りを得ることができたのです。
  この箒とチリ取りの話から、ご参詣の皆さまは何を思われたでしょうか。私は次の二点、
一、正しい師の下で、師の教えを信じて、師の言われたとおりに修行に励むことで悟りを得ることができること。
二、何ごとも信じて続けること、継続することで大きな力を得られること。
を挙げたいと思います。
  また、掃除は私たちの命の中にある塵、汚れを取り除き、命をきれいにすることを示唆しております。今日ピカピカに磨いた床も、明日になれば埃が付きます。毎日磨いておれば毎日ピカピカです。私たちの生命にも同じことが言えます。埃だらけになってからの掃除は骨が折れるのと同じように、命が濁ってからの掃除はより大きな苦労がともないます。そこで、毎日御本尊様の前に座ることを教えて下さるのです。
  毎日の勤行・唱題は、命の中に塵を貯めないための掃除と言っても良いでしょう。しかし、床を磨く掃除と、朝夕の勤行・唱題との間には大きな違いがあります。それは、掃除は埃や塵を取り除くだけですが、勤行・唱題は、埃や塵を取り除いた上に、功徳という素敵な財物を蓄えることができる、という点です。
  御本尊様の信仰は、生命の掃除をするばかりか財物を蓄えることができるのですから、これほど有り難く嬉しいことはないでしょう。
  末法の仏様であられる日蓮大聖人様のお言葉を信じ、御法主日如上人のお言葉を信じ、須梨槃特が行ったように、素直に正直に、命の掃除をしようではありませんか。そうすれば、財物は自由自在です。
  さらに申し上げれば、皆さまにはすでに財物が貯まっております。そして溢れだしております。周りの方々に功徳をわけてあげる折伏を願って、勤行・唱題に励みましょう。財は財を生みます。無限の功徳です。
  梅雨を迎え、鬱陶しい季節です。暑くもなります。熱中症対策に万全を期し、心の塵、命の埃を取り除く掃除が、成仏の財を貯えるたった一つの方法であることを忘れずに、自らと他の人々のために進んでまいりましょう。
  十八日は父の日です。感謝の心を行動で。お元気なお父様にはせめて一声、「元気で長生きして下さい」と。来世のお父様には「南無妙法蓮華経」と功徳をお贈りいたしましょう。

 

以上


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