立宗七百五十五年の
新春を寿ぎ奉る


〜大白法 新年特集号より〜

御法主日如上人猊下 新年の辞
 全国法華講員御一同には、立宗七百五十五年の新春を迎え慶賀の至りに存じます。

 いま宗門僧俗は、来るべき平成二十一年、立正安国論正義顕揚七百五十年地涌倍増と大結集の御命題達成へ向けて、異体同心・一致団結して、力強く前進していることはまことに慶びに堪えません。

 さて、法華経『譬喩品』には、智慧第一といわれた舎利弗でさえ、信によって此の経に入ることが出来たとあり、成仏得道のためには信こそ肝要であり、信なくして成仏得道は叶わないと示されています。

 しかし、それは此の経、すなわち法華経が最も勝れ諸経中王の経なるが故であって、爾前権経ではたとえ信があっても成仏得道は叶わないのであります。

 例えば、法相の如き教えでは、五性各別の説を立て、先天的に仏種を持ったものだけが成仏出来、他は出来ないとしています。

 これに対し、法華経は『方便品』に、
「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき(乃至)一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」(法華経一一一頁)
と皆成仏道を説き、また、同じく『方便品』には、開示悟入の四仏知見を説いて、仏の出世は一切衆生を等しく仏道に入らしめることであると示されています。

 したがって、衆生には本来的に成仏出来ない者がいるとしている法相の如き爾前権経は、皆成仏道を説く仏の本意とは異なる教えであって結局は方便の教えに過ぎないのであります。

 そこで改めて信について考えてみると、信とは正しい対境、すなわち正しい御本尊に対して信を取る事が成仏の絶対的条件であって、以信得入と云っても正しい御本尊に対して信を取らなければ成仏は叶わないのであります。すなわち、成仏得道のためには、最勝最尊の正しい御本尊を撰ぶ事が最大肝要事となるのであります。

 その正しい本尊とは、大聖人が『観心本尊抄』において、
「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(御書六六一頁)
と仰せられた御本尊、すなわち、久遠元初自受用報身如来、末法御出現の御本仏宗祖日蓮大聖人が出世の本懐として御建立遊ばされた本門戒壇の大御本尊であります。

 したがって、この本門戒壇の大御本尊を帰命依止の本尊と定めて信を取る時、我が身の即身成仏もはじめて叶えられるのであります。

 すなわち、信仰の対境が正しく決まり、その上で信を取ることが肝要なのであります。而して、その信とは、すなわち自行化他の信心であります。

 特に今日、御命題達成を期して前進している時、折伏は地涌倍増達成の必須条件であり、大結集も詮ずれば同様であります。

 勿論、地涌倍増と大結集の御命題を達成するためには、様々な困難が付き纏うことは承知の上であります。

 しかし、苦しい闘いであればこそ、その先には何物にも代え難い勝利の歓びがあり、楽な闘いでは真の達成感も歓喜も生まれて来ないのであります。困難が付き纏うからこそ達成へ向けての意欲も湧き、異体同心・一致団結して事に当たることが出来るのであります。正しくそれは超克の原理であります。

 「強敵を伏して始めて力士をしる」(同五七九頁)
との御金言をよくよく拝すべきであります。

 特に、本年「行動の年」は、御命題達成へ向けて講中一丸となって行動を起こし実践躬行すべき大事な年であります。

 大聖人は『土籠御書』に、法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(同四八三頁)
と仰せであります。

 法華講員各位には、この御金言を心肝に染め、御命題達成へ向けて愈々御精進下さることを心から念じ、新年の挨拶といたします。

(大白法/平成19年1月1日号より)



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