訪問して下さった創価学会員の皆さまへ

池田さんはお元気でしょうか?

 十月三十一日付の『聖教新聞』に掲載されている池田さんの写真を見て何か感じたことはございませんか?

 赤と黒のローブをまとって立っている表情から、生気はまるで感じられず、虚ろな目やだらんと下げられた両の手、その上後ろから誰かに支えられてやっと立っているのではないかと思える姿。往年の姿を知っている者としてはお気の毒に思います。さらに写真からはストロボの影とおぼしきものが見えますが不自然さを隠そうとする不自然さが見えるような気がします。余程体調がすぐれないのでは、と余計ことかも知れませんが心配をいたします。もしかしたら、年齢を重ねると少なからず冒される病では、と思ったりしております。以前にはカネ夫人との写真が掲載されておりました。その時の写真からも体調が悪いのではないだろうかと思っておりましたところ、この度の写真です。杞憂であれば結構なのですが・・・。


語りかけることはもはや不可能でしょうか?

 常日頃、「会員に直接語りかけ、渾身の指導」を自認しているにもかかわらず、新聞には「伝言」という形でしか登場しないのも心配のもとです。かつてある婦人部の方は、「御本尊様はなにも仰ってくれないが、先生は語って下さるから先生が上」との御高説を開陳しておりました。この婦人部の方は今頃どのように思っているでしょうね。また、ある創価学会員は、「先生は将来に備えて書き物をされていてお忙しいから皆の前には出られないの」と言っておりました。やはり、重篤な病に冒されているのでしょうか。

 誤解のないようにここで申し上げておきますが、病に冒された、といってもそれが謗法の現証である、というのではありません。生・老・病・死の四苦は誰にでも平等におとずれるものであり、むしろ、病にあって自らの命を考えることを教えるのが仏法です。


病は正しい信仰に立ちかえる好機

 ことに宗祖日蓮大聖人様は、『妙心尼御前御返事』で、
このやまひは仏の御はからひか(平成新編御書九〇〇頁)
と教えて下さっております。この有り難い御文に常に励まされ、今日を力強く生き抜くのが私どもの信仰です。

 ゆえに、病を「現罰」だと捉えてはならないと考えます。病の捉え方によって、「功徳」ともなり「現罰」ともなり「一闡提人」ともなることを申し上げたいのです。
 あくまでも日蓮大聖人様の信仰は、
病ある人、仏になるべきよしとかれて候(同)
との覚悟でなければなりません。病を病と受けとめ、南無妙法蓮華経唱える時に、生死即涅槃の大功徳を受けられるのです。


不正直な心が「一闡提人」(いせんだいにん)

 ただし、誤った不正直な信心から、いつわりをもって多くの人々を惑わすことは大聖人様の信仰の上からは大謗法であることを知らねばなりません。

日蓮大聖人様は、『妙法尼御前御返事』で、
悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんし、はれ物の口をあけずしてやまするがごとし
(平成新編御書一四八二頁・御書全集一四〇四頁)
と仰せです。

 この御文は、当時の念仏者等が、謗法の罪によって悪道に堕ちて苦を受けている師匠のことを、弟子達がいつわって覆い隠すばかりか、反対に臨終は素晴らしかったと讃嘆する様子を述べられ、不正直な信仰は師匠の苦しみをさらに増長させるのみならず、師弟共に無間地獄の苦を受けることになる、と誡めて下さるものです。

 現罰として表面に現れるのは未だ謗法の罪が浅いことを『開目抄』では
順次生に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提人これなり(乃至)上品の一闡提人になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし
(平成新編御書・五七一頁 御書全集二三一頁)
と仰せです。この御書の「一闡提人」について、
「正法を誹謗し、無間地獄に堕ちる大罪をを犯しながら、ながく悔い改めず、心に懺悔のない人(中略)今末法において、正法とは、三大秘法の御本尊である。去れば今日において正法を破る一闡提とは総じて大聖人を信ぜづ、誹謗し、御本尊様を拝さぬもの」
(立正安国論『御書十大部第一巻』 七八四頁)
との言葉から明らかでしょう。


池田会長指導

さらに、
「もとより日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります(中略)学会は絶対尊崇の本源たる本門下種人法一筒の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本として、永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります」
(聖教新聞 昭和五五年四月二日 池田大作名誉会長「恩師の二十三回忌に思う」)
との発言から、本門戒壇の大御本尊様を根本に、代々の御法主上人を仏法の師と仰いで日蓮正宗の信徒として広宣流布を目指して励むことが「一闡提人」にならない唯一の道であることが明白です。


北条第四代会長指導
「今日において、歴代の御法主上人を日蓮大聖人と仰ぐのが、日蓮正宗の信心であり、学会の伝統である。御法主上人を『軽しむ』ようなことがあれば御書に照らしても堕地獄(だじごく)は疑いない」
(創価学会創立五〇周年記念幹部登山)
とあります。堕地獄を免れるためにも、日蓮正宗富士大石寺の信仰に立ちかえる時です。

 過去に指導し発言したことに照らし合わせるならば、現在の池田氏の指導は真逆の指導発言であることは明らかでしょう。北条会長が言うように「堕地獄」です。堕地獄は死後に行くところではなく、生きている時に受けなければならない苦しみであることは、『上野殿後家尼御返事』の
夫浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり
(平成新編御書三三六頁)
との御文からお分かりいただけるでしょう。

 一闡提人も同じです。ゆえに、一闡提人か否かを決するのは、弟子にも責任の一端があるように思います。

 そこで、『開目抄』の、「現罰なし」との御文に思いをいたす時、不正直で反省のない自己中心的な考えの者は、「現罰」に気づくことなく、さらに罪を重ねることを「現罰なし」と仰せになっている、と拝することが出来ます。決して「現罰」がないのではなく、「現罰」に気づかずにさらに罪を重ねることを誡めて下さるものであるといえます。

 したがって、仮りに師が重篤の病にあるのであれば、正直にその旨を公表すべきです。師の身が重篤な病に犯されていながら、健在を装おうことは、一闡提人の現証を確定するようなものです。

 徒党を組んで法華講員宅に押しかけ、総本山や御法主上人、また法華講員の悪口誹謗をする前に、今一度自らの信仰の成り立ちや、よって立つべき本尊のことを考える時ではありませんか。言われるところの「池田氏の重篤な病」が本当であれば、富士大石寺の信仰に立ちかえる千載一遇の時であることを自覚すべきです。正直に信仰を見つめ直すことこそ、
病によりて道心はおこり候か(同)
なのです。池田氏の病は、創価学会員が過去二十年の信仰を振り返り、正しい信仰に立ちかえる最後のチャンスです。正直に信仰を見つめ直すことこそ肝要なのです。


罪として滅せざるなし

日蓮正宗総本山第二十六世日寛上人が、『観心本尊抄文段』でまことに有り難い御指南を下さっております。
「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」
と。

 ここで仰せの「諸仏諸経の能生の根源」とは、いうまでもなく、総本山富士大石寺に御安置申し上げる本門戒壇の大御本尊であることは、末代はいざ知らず今日の創価学会員であれば異論はないところでしょう。

 一刻も早く佛乗寺に参詣し勧誡を受け、唯授一人の血脈を御所時あそばされる御法主日如上人のお許しを戴き、大御本尊様に御目通りをして、自身の罪障消滅を願い、師と仰ぐ池田氏の一闡提人の苦しみを救う信心に励むことをお勧めいたします。

『四条金御殿御返事』に曰わく、
毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし
(平成新編御書・一五〇二頁 御書全集一一九四頁)

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日蓮正宗向陽山佛乗寺