平成15年11月号
御指導

〜 折伏は心の財 〜
10月度御講より
崇峻天皇御書(御書一一七三頁)

蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし

【折伏は心の財】

 本日は、「折伏は心の財」と題して、少々申し上げたいと思います。

 折伏がなぜ「心の財」になるのかをお話しするにあたって先ず、日蓮大聖人様が「財」についてどの様な御指南をされているかを探ってみたいと思います。『崇峻天皇御書』には、

「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(一一七三頁)

と仰せです。これは大聖人様が四条金吾に与えられた御書で、財にも三種類あると教えて下さる有名な御文ですね。中でも「心の財が第一であり、心の財を積むことが成仏の道である」とのお言葉に、大聖人様の信心の確信が込められています。

 では何故このように仰せになるのかを考えてみましょう。先ず最初に「蔵の財」です。これは現世において蔵に蓄えることができるものをいいます。大聖人様の御在世で申せば、米やそれに類する穀物などのことでした。 現在の感覚ですと、お金、宝石、あるいは株や土地なども「蔵の財」と申してよいでしょう。 この「蔵の財」については、例えば、ギリシャ神話などでも比喩的に語られています。絵本などでご存じの方も多いと思いますが、「ミダス王の願望」というのがあります。

 「ある時、山野の妖精である「シレノス」がお酒に酔って狼藉をはたらいているところを捕らえられ、王宮に引き立てられてきました。国王のミダス王は、この酔いどれの年老いた「シレノス」が酒の神である「バッカス」の師匠であることを知っておりましたので、昼夜に亘って歓待をし、さらに丁重にバッカスの所まで送り届けます。その礼として、バッカスから「何でも望みを云うがよい、叶えてやろう」と言われました。そこで、ミダス王は以前から願っていたことを申しました。それが、「手に触れる物が全て黄金に変わればよいのに」という「ミダス王の願望」言われるものです。それを聞いたバッカスは一言「よかろう」。そして帰り道、王が木の小枝に触れれば小枝は金に変わり、石を拾えば石がたちまちに金になりました。願いが叶った王の喜びは天にも昇るほどで、喜び勇んで宮殿にかえり、お祝いの食事をすることにしました。ところが、その時です。手に取った食事を口に運ぼうとしても、パンが金に変わり、噛もうとしても噛めません。ワインを飲もうとしてグラスを手にするのですが、グラスもワインも金に変わり、飲むこともできません。お腹がすいても喉が渇いてもどうすることもできません。挙げ句の果てには、最愛の娘まで黄金の像になり固まってしまったのです。

 宮殿は願い通り「黄金の宮殿」となりましたが、反対に、食べることも飲むこともできない「黄金の地獄」になってしまったのです。ここで、過ちに気づいた王は、バッカスの所に行き、愚かな考えを悔い改め、もとのようにして頂きたいと願い、「バクトロスの河で身を洗う」ことを教えられ、「黄金の地獄」から解放されたのです。その後は、宝物に執着することを戒め、平穏な日々を送ることができた。」とあります。

 お経文にも似たような話があります。それは次のようなものです。
「ある立派な国王がおり、国もよく治まり国民も平和に暮らしておりました。しかし、国王は、自らが亡くなった後もこのような平和で豊かな暮らしをしたい、と思いました。ではどのようにすれば願いは叶えられるか、と日頃から考えておりました。そして、国王の出した結論は「今幸福なのはお金があるからだ、死後にもこのお金をもって行けばよい」というものでした。

 国王にはたいそう美しい王女がおり、国中の若者は王女と一度でよいから話をしたいと願っていることを知っている国王は、「王女と話がしたいものは宝物をもって王宮に来るがよい」と振れを出し、国中から宝物を手にした若者が押し寄せ、ついに王宮には国中の宝物が集められました。

 ところが、貧しい青年がおり、王女に会うために持っていく財がありません。ついに青年は床に伏して、今にも死にそうになりました。その様子を見ていた母親が、「そう言えば、亡くなったお父さんの棺の中に、金貨を二枚いれたはずだから、それをもって行けばよい」と言いました。青年は大喜びでお墓の中から金貨を掘り出し、王宮に行き、王女に面会を願い出ました。驚いたのは国王です。国中の財を集めたと思っていたところに、身なりの貧しい若者が金貨をもって来たのですから。さらに驚いたことには、父の墓を掘り返して持ってきた、と言うではありませんか。そこでやっと国王は気づくのです。「お金を持って来世にはゆけない」ことに。死後を助けてくれるのはお金ではないことに。これ以降、王は現世での徳を積む修行に励んだ。」と説かれています。

 お金至上主義のような現代社会にたいする警鐘であり、「蔵の財」に執着することの愚かさを教えてくれるようです。ギリシャ時代という遠い昔にも、「お金第一」という人がいて、周りから顰蹙をかっていた姿が浮かび上がりますね。

 また、ギリシャ神話は、現世でのことを、お経文では、来世を学ぶことができると思います。両方とも、いかに私たち凡夫が、「蔵の財」に苦しめられているかを知ることが出来ます。

 では、次の「身の財」はどうでしょうか。身の財と聞いてどの様な財を思い浮かべますか。如何でしょう。

 そうですね。社会的地位や名誉。あるいは友達などの関係もここに含まれますね。どちらも大事なものです。御書をいただいた四条金吾は鎌倉武士でしたから、名を惜しむ傾向は現在の私たちよりはるかに強かったでしょう。名誉が重んぜられる社会ですね。また、どちらかというと「蔵の財」が物理的なものであることに対し、「身の財」は精神的なものを仰せになっているとも考えられます。

 この二番目の「身の財」である、地位や名誉はあっても困らないように思いますが、御書の中では次のように御指南下さいます。即ち、

「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(二九六頁)『持妙法華問答抄』

と。ここで仰せの「名聞名利」は世間的な地位や名誉のことです。つまり、今生での飾りがあることにより、「我貴し」との思いに執われ、かえって足かせとなり、成仏の功徳を受けられなくなる。だから、「名聞名利」は恐るべき事なのである、との御指南です。

 いますね。よく知っている人が。これを見て下さい。この池田君などはそのよい例でしょうね。この名誉称号、買ったのか貰ったのか知りませんけれど、ふんぞり返って宣伝するところに池田君の心が表れています。「陰徳あれば陽報あり」との御指南と正反対の行為です。

 この池田君のように、「今生の飾り」である名聞名利に執着して、「俺が一番エライ」という錯覚に陥り、謙虚な心がなくなり、やがては、自己中心的な物の考えが増長し、その結果、「ノーベル平和賞をもらえないのはあいつの所為だ」。「日蓮正宗が『四箇の格言』などの、古くさいことを言うからノーベル賞を貰えない」等と思うようになるのです。よいことは全部自分の力、悪いことは全て他人のせいにして、悪口を平気で言うような修羅の境界に堕ちるのです。

 この池田君の姿は、「ミダス王が堕ちた黄金地獄」にならえば、「池田君の勲章地獄」あるいは「池田自己中地獄」と名付けることができます。この称号を池田君に差し上げたいと思います。また一つ称号が増えたと喜んでくれるかも知れません。

 日蓮大聖人様が、「身の財」よりも心の財、と仰せになる意味がよく分かりますね。地位や名誉も、使い方によっては悪しき宝になる見本です。そのような意味から申し上げれば、池田君は「蔵の財」「身の財」が本当の財ではないことを教えてくれる「実に偉大な指導者」です。彼の姿を通して、蔵・身の財があてにならないどころか、悪しき心であったならば無間地獄の因となることを肝に銘じなくてはなりません。

 そこで、三番目の「心の財」が大切であると大聖人様は仰せになるのです。では、ご参詣の皆さまは、「心の財は何か」と問われてどの様に答えられますか。如何でしょう。ご遠慮なく仰ってみて下さい。

 色々でましたね。仰るようにみんな当てはまります。一つ一つが全て心の財です。「蔵の財」・「身の財」は外見で見分けることができます。「お金」も「名誉とか地位」も相対的なもので、目で見て判断のできるものですが、「心の財」は外見では判断することのできない「絶対的」なものである、といえます。 そこで、目で見えない「心の財」をどの様にすれば積むことができるのかを考えてみましょう。

 総本山二十六世・日寛上人が有名な御指南を下さっておりますね。金沢法難の最中に御信徒に与えたお手紙です。

「かならずかならず身の貧しさをなげくべからず。唯信心のまずしき事をなげくべきにて候」

と。この御指南に、物理的な、「蔵の財・身の財」と、精神的な「心の財」が端的に示されております。即ち、物理的な貧しさは現世だけのものであるから嘆くことではない、未来永遠に所持できる宝物を持つことが大切なのであり、その宝物は御本尊様への信心なのである。その信心(宝物)がないことを嘆くべきです、とこのように教えて下さるのです。 この御文で、「心の財」は富士大石寺の大御本尊様への信心であることが分かりました。では、「心の財」について具体的にはどのような物であるか、そのことを御書の中から拝しますと、

『阿仏房御書』(七九三頁)
「然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝を以てかざりたる宝塔なり」 


『御義口伝』
「御義口伝に云はく、七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。又云はく、頭上の七穴なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有七宝の行者なり云云。」

このように仰せです。つまり、御本尊様を受持して南無妙法蓮華経と唱える私たちには七宝と言って七つの宝物によってかざられている、と仰せです。一般に、七宝・七つの宝といえば、金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・真珠・マイ等の高価な宝石などを言いますが、御本仏日蓮大聖人様は、物質的な宝、ようするに「蔵の財、身の財」ではなく、「聞・信・戒・定・進・捨・慙」の七種、これが財であると仰せになるのです。これが、永遠に崩れることのない、我が身を飾る「心の財」であるとお示しになるのです。相対的・物理的な財ではなく、絶対的・精神的な財が「聞・信・戒・定・進・捨・慙」の七宝であるとされるのです。

 では、この七宝とは如何なるものでしょうか、先ず「聞」聞くと言うことですね。

@御本尊様の話を聞く事が「聞」、「聞法下種」と言う言葉もありますね。意味は一切は「聞く」ことから始まるということです。

この「聞」については、日寛上人が寿量品談義の中で

「信心を進むことは法を聞くによるなり。聞かずんば信心生ぜず、信心生ぜずんば修行を怠る。修行を怠れば未来如何なる所に生まるべしや。仍て歩みを運んで聴聞肝要なり」

と御指南されます。聞法がいかに大切であるかがお分かりいただけると思います。先ず聞くことありき、ですね。そして、

A御本尊様を「信」ずる気持ちがおこり、唱題は、
B御本尊様を持つ「戒」に昇華します。そして、
C御本尊様の前で唱題をすることにより平安な心持ちを感じる「定」へとつながり、
Dこの御本尊様と共に歩んで行こうという「進」。つまり精進の心が高まってまいります。そういたしますと、次には何とかして、この御本尊様の有り難さに御報恩をしたいという思いが自然自然と心の中に湧き上がってまいります。それが、
E番目にある「捨」です。御本尊様に御供養をすることはこの「捨」に当たります。何を捨てるかと言いますと、執着の心を捨てる、と言うことなのです。先に申し上げましたが、「蔵の財」に執着するとミダス王のように「黄金地獄」に堕ちます。身の財に執着すると池田君のように「勲章地獄」に堕ちます。そのような地獄に堕ちないために、執着の心を捨てる修行である「喜捨」を勧めるのです。
 この喜捨には、「財施」と「法施」の二種があります。財施は文字通りに蔵の財を御本尊様に御供養することです。皆さまが「御供養」として、御本尊様にお供えされたことです。なぜ「捨てる」ことが功徳になるのかこのことを御書から拝しますと財施については、

『阿仏房御書』(七九三頁)
「多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ(中略)あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」


とあることから明確でしょう。宝塔とは御本尊様のことを仰せになっているのは分かりますね。ですから御本尊様に御供養することは「自分自身への供養」となる、と仰せです。これは日蓮大聖人様のお言葉ですから、信じないわけにはまいりません。ここを信じられなければ日蓮大聖人様を信仰しているとは申せません。

 問題はもう一つの「法施」と言われるものです。違う言葉で言えば「折伏」です。御本尊様のお話しを周囲の人たちに伝えて行く修行です。

 大聖人様は、このように、「法施」、折伏が七宝の一つであり我が身を飾る財であると仰せになるのです。

 要するに、大聖人様は「折伏は捨てることである」と御指南下さるのです。言葉を換えて申し上げれば、「自身の中にある執着」を捨てることから折伏は始まる、と言うことだと思います。

 こんな例があります。「折伏をしよう」と言う気持ちはあるが、いざ折伏になると話ができない。その理由として、長年のお友達だから、こんなことを言ったらお友達としてつきあってもらえなくなる。また恋人に、信心の話なんかしたら嫌われる。あるいは、親には言えない、子供には年取って世話にならなければならないからあまり強く言えない等々。「友達・恋人・親・兄妹」を大切にしたいと思う気持ちは大切ですが、大切にするあまり、「執着」の心に支配されていませんか。この執着が身近な人を、大切な人を御本尊様に導くことを妨げているのではありませんか。捨てないことにより折伏が進まないのではありませんか。そこで、折伏は、自身の中にある執着を捨てることにあると言えるのです。

 友人知人に親兄弟は「身の財」です。しかし、そのままであっては「身の財」の域をでません。大聖人様の信心は、そこからさらに一歩進めて、「身の財」を「心の財」に変換する方法を教えて下さるのです。

 執着を捨てて折伏をすることは「心の財」を積むことであり、それは即「善知識」を得ることになります。『三三蔵祈雨事』(七四三頁)には、

「仏になるみちは善知識にはすぎず」

とありまように、私たちが成仏の境界を確立することができるのは、「善知識」によるのです。友人や恋人や家族が、「私のためにお題目を唱えてくれる人」、それが「善知識」です。執着を捨てて御本尊様に導くことにより、「身の財」を「心の財」に変換して行くことができることを教えて下さっております。

 たとえば、かつて創価学会員から日蓮正宗の信心を教えられ信心をするようになった方が少なからずいらっしゃると思います。ところが、紹介者はいまだに創価学会で謗法の限りを尽くしている、そのような事例がありますね。しかし、折伏を受け法華講員になった方が、大御本尊様にその方のことを祈ることにより仏果を得ることが出来るのです。そのことを御書では、

『華果成就御書』(一二二五頁)
「日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし。あらたうとたうと。よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり」


と仰せです。師匠の道善房は謗法でしたが、弟子の大聖人様が仏になることで師匠も仏になる、との御指南です。

 導いた方が誤りを犯し地獄に堕ちたとしても、導かれた方が正しい御信心に立っておれば、御本尊様の慈悲により大きな功徳を受けられる、成仏がかなうという有り難いお言葉です。

 換言しますと、いま私たちが折伏をするのは、自分自身の成仏のためです。「人のために折伏をするようではあるが、我が身に功徳を受ける」のが折伏であり、「法施」であり、我が身を飾る七宝です。そのためには「自己の中にある蔵の財、身の財への執着を捨てて、御本尊様と共に生きること」を教えて下さるのです。以上で、「折伏は心の財」と申し上げる意味がお解かり頂けたと思います。

 さらにもう一言申し上げますならば、「信心の遺伝子」を伝える、と言うことです。南条時光や、熱原の法華講衆の「信心の遺伝子」を受け継いでいる私たちです。この「信心の遺伝子」を次の時代に伝えて行く作業が「折伏」なのです。真の意味での「法統相続」とは「信心の遺伝子」を伝えることです。血縁や地縁でのつながりはもちろんですが、さらに大きな立場からの「法統相続」を目指す時です。

 そうは申しても、折伏には勇気がいりますね。そこで、「聞法生謗」という妙楽大師が弘決で説いた文を心の隅で結構ですからしまっておいて下さい。「法を聞き謗を生ず」と読みます。意味は、「法を聞いてその法を誹謗することは逆縁の功徳を結ぶことになる」というものです。さらに続けて「一度は地獄におちるが、無数の仏を供養する順縁の功徳よりも大きい」と説かれています。どうですか、御本尊様の教を説き聞かすことは順縁はもとより逆縁にもに大きな功徳があるということです。如何でしょうか? 確信をもって、相手と自身の未来に成仏の因となる「信心の遺伝子」を残す修行に励もうではありませんか。

 最後のFの「慙」、これがまた大切ですね。聞・信・戒・定・進・捨の修行をしてきたが、「私は御本尊様の信心に恥じることがないだろうか、と自己を省みることです。私が御供養をしたからあの建物ができた、とか、私たちが折伏して数を増やしたから大きくなった、等と慢心を起こしてはいないだろうか。これらの反省をすることが「慙」です。そして、最初の「聞」に立ち返り、精進を重ねることによりさらに深い境地を得ることが出来るようになるのです。

 今私たちは、佛乗寺1千所帯達成と、新本堂建立に向かって日々精進をしております。1千所帯の達成は「折伏」です。その「折伏」が新本堂建立の「財」になるのです。折伏なくして真の財を得ることはできません。その修行は「聞・信・戒・定・進・捨・慙」の七宝に飾られた宝塔の貴い姿です。

 益々のご精進をお祈りし今月の法話と致します。長時間ご苦労様でした。
折伏体験記
 皆さんお元気ですか?島根の木本です。よい報告です。
 常に御本尊様に縁して欲しい!とチャンスを逃さぬようにまわりの人に話をして沢山の縁を頂き、その中で一年前にお寺に来た親友が、入信の決意をしました。ですが、御授戒に到らず、ずっと祈っておりました。そんな時、お寺に周りの方を誘っていると、同じ会社の齋藤さんと言う方を、御講にお連れする事ができました。ただ功徳を積んで頂きたいと、御花造りにも参加してもらうと、そこで、偶然にも勧戒式に出る事ができました。帰りに功徳寺の御住職様に声をかけていただき、良いきっかけができたと思います。
 以前から悩みをかかえていらっしゃった様子でしたが、信心した方がいいのかな?と私に聞いてくれるようになり、私は絶対の確信をもって勧めました。いつか、親友を本山か佛乗寺に連れて行く予定だったので、ちょうど月末に車をただ同然で戴く好都合もあるし・・給料日後に・・ヨシ!大石寺に連れていくぞ!と、まず齋藤さんを十一月の連休に誘ってみると、なんと、早く信心したい!との返事にびっくりしました。これは大変だ!と笠原御住職に相談すると、早くがいいね!とのお返事で、でもすぐお金ないし・・いや!今連れていかなきゃ助かるものも助からなかったらどうする!と思い、国道の下道で、私が運転するので行きませんか?とお誘いすると、初めは近くのお寺でと言っておられたのですが、本山の方がいいなら、自分も運転します、と決意されました。私も何を考えたか明日の金曜の夜出れば間に合うか、と突然無理を言って笠原御住職にお願いすると、何から何まで手配して下さいました。次は親友を誘うだけだ!と三人で行けるよう齋藤さんに了解をとり、金曜の夜に急でしたが話をしました。しかし今回は用事があり行けないとの事で、今度、必ず御授戒を受ける約束をして、気合い入れて出発しました。昼までに到着しなくてはならなかったので休む暇が無く、交代で寝ながら車を走らせました。途中から雨が降ってくるし、間に合わないので高速に少しだけ乗り、十四時間かかりました。十月十八日本山に着き、蓮東坊では御住職様はじめ、御世話の方が暖かく迎えて下さいました。その日同じく京都から来られた方と一緒に、御授戒・御本尊下付を戴きました。齋藤さんは、その時の唱題に入った時、何かわからないけれど込み上げるものを感じ、涙がでそうだったとおっしゃっていました。 お経を終えると、食事を用意して下さっていて、有難く頂戴し、御開扉にむかいました。六万塔〜三師塔〜五重塔〜仏乗寺信徒の墓にもお参りし、六壺で御塔婆をたてて勤行に出て、坊に戻りました。礼服で参詣された齋藤さんに有難い言葉と、本やお土産まで戴き、感謝しきれない程でした。すぐ本山を後に、仮眠を取りながら又戦いです。修行だな!と思いました。朝勤行を何処かでしようと走っていると、齋藤さんが、ここは?と真妙寺様を見つけ、初めての朝勤行をさせて戴きました。齋藤さんは、疲れているにもかかわらず、長い時間、正座と御経を読まれ、その姿は素晴らしく、私は初心を思い出しました。夕勤行は米子市の専修寺様でさせて戴き、心から御本尊様と、この度、お世話になった御住職様方、皆様へ感謝申し上げ、帰宅しました。
 初心にかえって、相手が誰であろうと関係なく、その人を必ず救う、幸せになって欲しい、ただそれだけを真剣に祈る真心を忘れない様に教えて頂きました。自分が迷わず本気になれば必ず叶うんだと更に確信しました。最近、何処かに少しだけでも見返りを意識して、自分勝手な線を引き、生活に流されかけていたみたいです。次の日から毎日、一緒にお寺で朝夕勤行と唱題をさせて頂き、ある意味、私が鍛えられています。行きたかったけど、一人だけで行きづらかった朝勤行も、今では太鼓を叩かせて頂き、おかげで大変有難いです。齋藤さんは、さっそく家族の方や、社員朝礼で日蓮正宗に入信した話をされたり、御会式に信徒のおばあさんを迎えに行くのにも快く引受けて下さったり、本当に頭が下がります。何より毎日の勤行への努力には感動しています。念願の島根支部設立の話しにも、力になってくださるので皆様、宜しくお願い致します。成就したのは、よく話をして信頼関係をきづき、判らなくなったら相手の幸せをひたすら祈り、必ず御住職にご指導を頂いた事だと思います。異体同心の大切を遠くに居ながら感じました。本当に有難うございました。これからも自分に負けず、信心根本に活動に仕事に頑張っていきます!
 幸せに成りたい、幸せにしてあげたいなら、今折伏ですね。話をすればいいんだね!と素直に行じておられる齋藤さんは、凄いです。むこうから話を聞かせてよと縁がやって来ています。私も唱題してワクワクして、いろんな人を真剣にもっと救いたいです!
 では又お会いしましょう。有難うございました。

(文責編集部・禁複写転載)