平成16年10月号
「池田大作生き仏」の誕生を演出する観念文の改変
 池田大作は今回五座三座の勤行と観念文の変更にこと寄せて、自らを生き仏にするべく巧妙な手段をもちいて会員を欺こうとしている。

 それは、「広宣流布祈念」という項目で、
「創価学会初代、二代、三代の会長を広布指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます」

として、これまでの観念文にはなかった「三代」を付け加えたことである。先の会則変更で「永遠の指導者」となった池田大作ではあるが、今回の変更でついに「生き仏様」となった。会員たちは朝夕この観念をすることによりいつの間にか「生き仏様」を心の中に刷り込まれ、本尊が池田の写真になってもおかしいと思わないように洗脳されるのである。悪巧みはここに極まる。 もっとも、池田にすれば「三代」より「初代」になりたいところだろう。三代目はどこまで行っても三代目でしかない。そうすると、創価学会という名前を改めて、「池田教」とするしかない。そうすれば「初代教主」になることができる。これも時間の問題である。何しろ心臓に重大な欠陥を持っている池田大作であるから、時間がない。焦っているのが手に取るように分かる。法華経で説かれる永遠の生命など、毛頭信じることができないのが「凡夫池田大作」の真実の姿なのである。

 日寛上人の御本尊をまねた池田本尊を拝んでいる創価学会員諸氏よ、時代がいくら変わろうとも勤行は信仰の基本であることを忘れてはならない。信仰の基本をないがしろにして広宣流布と叫んでもそれは砂上に楼閣を築く愚かな行為である。功徳がでるどころか、地獄の苦しみを受けるだけである。

 冷静に考えてみようではないか。仮りに、亡き初代、二代に対し、「報恩感謝」をしよう、と弟子の池田が思うのはあり得るかも知れないが、(牧口氏も戸田氏も、大聖人様と同列に扱われることに迷惑をしているであろうが)秋谷栄之助をはじめとする弟子たちが、「是非池田先生にも勤行の時に報恩感謝の文字を入れた観念をしたい」という申し出があったとしても、「ちょっとまて、おれはそんなに偉くないぞ」というのが御書の中で説かれる

「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり」(四条金吾御返事一一一七頁)

の境界ではないか。日頃から「おれは偉い」という池田のことだから、弟子に対してこのようにさせたのが本当のところであろう。まるで松本教祖や金正日をお手本としているように見えるが如何であろうか。この一点をとっても、池田大作が仏道を求める者と対極にある人物であることがかわかるはずである。

「創価学会が宗門と離れたら脱会する」と言っていたあなた。
「御本尊が変わるようなことがあったら考える」と言っていたあなた。
「日蓮大聖人以外に仏様はいない」と言っていたあなた。富士大石寺の大御本尊様のもとにお帰りにならないと成仏はかないませんよ。それとも池田生き仏様と地獄に行きますか。

 あなた次第です。そして、あなたの眷属の成仏も。
秋季彼岸会
○お彼岸やお盆の意義は、「亡き方を通して自身を知ること」です。
 
 秋季彼岸会のご参詣、誠にご苦労さまです。願い出のございました塔婆供養のご回向を申し上げました。皆さま方の貴いお志で建立されたお塔婆の功徳に感応した亡き方々が、お喜び下さっているここと拝察いたします。

 この彼岸会は日本独特の法要で、聖徳太子の頃にはすでに執り行われておりました。亡くなった人々を追慕する上から、お寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りなどが世間一般でも通例となっています。

 亡き方への追慕の形として知られている一番古い例は、今から五十年前に発掘されたイラクのシャニダール遺跡の「シャニダール四号人骨」であると言われております。これは六万年前の人の骨で、この遺体の上半身の周囲に八種類もの薬草の花粉のあることが明らかにされております。そして、これらの花粉は自然に落ちたものではなく、亡くなった人に花を手向けたことを表している、と自然人類学者が指摘をしております。このことから、私たちの先祖は、六万年もの前から亡くなった方を弔う儀式を行っていたことが科学的手法で証明されていることになります。

 昔も今も、「死」は辛く悲しいものです。そこで、花を手向け手を合わせる弔いが生まれたのです。そして、古代人たちは、亡くなった仲間を弔うことにより、「生きている私」、を理解しました。そのことは現代も同じです。

 日蓮大聖人様は、『草木成仏口決』(五二二頁)で、

「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」

と述べられます。「死の成仏」とは、来世の成仏です。「草木成仏」とは、草木を含めすべてのものに仏性が具わっており仏になることができる、との意です。もちろんその根底には「南無妙法蓮華経」の御本尊様がおわします。花を手向け手を合わせる行為からさらに進んで、究極の方法として、塔婆建立を教えて下さるのです。それは、命に対する思いを、塔婆の意義を通して、「生きている私」から、過去・現在・未来という三世の生命に昇華することを意味します。したがって、塔婆を建立することは亡き方のためではありますが、生きている私たち自身の命を知ることである、と言えます。これは一念三千の上からの仰せです。

 また、日蓮大聖人様は『白米一俵御書』において、

「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には『若し深く世法を識れば即ち是仏法なり』と」(一五四五頁)

と仰せになります。「まことの道」とは、真実の道、真理の道ですから、仏法のことです。つまり「世の中とかけ離れたところに仏の教えがあるのではない」と言う意です。そこで、皆さまのように、御本尊様の前に足を運ばれ、日頃から丹精をされた品々を御供養としてお供えされ、読経唱題、お焼香に励む修行は、「お彼岸」と言う世間法から、御本尊様に向かう信心である、と言えます。そのことを「若し深く世法を識れば即ち是仏法なり」とご教示下さるのです。「信心即生活」あるいは「世間法即仏法」と言う意はここにあります。

 ところが、「信仰さえしっかりしていれば成仏するんだから、お塔婆供養など不要である」とか、「本来、仏教には塔婆供養というようなものはなかった。江戸時代の檀家制度から起こった悪い風習である」などという人がおります。はたしてそうでしょうか。

 前述のごとく、お塔婆の建立は、「衆生を教化する儀式」です。このことを化儀と言います。化儀は「形」です。この化儀を形式である、と軽く考えていると、いつの間にか本来の精神を失ってしまい、大きな誤りを犯すことを池田大作が教えています。彼は、お塔婆やお葬式という化儀を軽視し、自分の都合のよいように変えてしまいました。そして大御本尊様から離れました。いずれは、お経も題目も必要がない、本尊も不要である、と言い出すでしょう。このように、化儀を軽んじることは恐ろしいことなのです。

 皆さまの身近にこのような人はおりませんか。もし、いたならばお彼岸は良い機会です。お寺にお誘いし真実の追善供養を教えてあげようではありませんか。彼らも、もともとは正しい富士大石寺の教えに身を置いた人たちです。本心を取り戻す手助けをしてあげようではありませんか。このことも自身を見つめる大切な修行の一環です。

 日蓮正宗法華講は、日蓮大聖人様の仰せのままに、「大御本尊様」と「唯授一人の血脈」を根幹として七百数十年の間純粋な信仰に励んでまいりました。この歴史に誇りを持ち、次の代に伝える上からも、化儀を大切にしなくてはなりません。その意味から本日のご参詣は誠に意義深きものがあります。功徳もまた無量です。

 本日はお彼岸のご参詣まことの御苦労さまでした。残暑が厳しい折ですが、日顕上人猊下の御指南下さる「一人が一人以上の折伏」を目標に、一生成仏の信心に励んでまいりましょう。
広布唱題会
(平成十六年十月三日)

〜 お題目は世界中に届く最高の贈り物 〜
御講聞書(おんこうききがき)

 「題目を唱え奉る音は十方世界にとどかずと言う所なし。我が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざるところなし」



【現代語訳】

 私たちが御本尊様に向かってお題目を唱えるとき、お題目は宇宙大の広がりがあります。私たち凡夫の声がいくら大きくとも世界中に届くことはありませんが、御本尊様に向かいお題目を唱える時に、私たちの願いは世界の隅々にまで届くのです。


【ポイント】

 御本尊様の限りないお力を題目の面から御指南下さる御文です。

 私たちは、折伏の大きな願いをたてて、お題目を唱えます。相手に、「幸福になって欲しい・病気がよくなるように」などなど。そのような種々の祈りを込めたお題目は、どのような所にも届きます。どのような相手にも届きます。そして、その祈りは最高の贈り物です。なぜならば、御本尊様の功徳ほど貴いものはないからです。

 また、地球上には、貧困や飢餓や戦渦などに苦しむ人々が大勢います。その方たちのことを思い、お題目を唱えることも大切です。援助という名の物質的支援には限界があります。しかし、御本尊様の功徳は無限です。さらに、贅沢三昧で傲り高ぶった人のことを祈るのも私たちの役目ではないかと思います。どちらにせよ、他者のためにお題目を唱える境界が、「仏様の境界」です。なぜならば、そこには慈悲があるからです。ゆえに、御本尊様に向かいお題目を唱えるときはすでに、「仏界」です。

 日寛上人が功徳をわかりやすく御指南下さる御文、

「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」

を、どのようなときにも忘れずに、お題目を唱えましょう。

 お題目は世界中に届く最高の贈り物です。
永代経
(平成十六年十月一日 永代経)

〜 回向 〜
化城喩品(けじょうゆほん)

「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん」



【意訳】

私の願いは、私が修行をして得た功徳を、広くすべての人々と分けあうことです。そして、私達とすべての人々が分け隔てなく平等に、仏の道を成し遂げることです。



法蓮抄(八一六頁)

 「法蓮上人の御身は過去聖霊の御容貌を残しおかれたるなり。たとへば種の苗となり、華の菓となるが如し。其の華は落ちて菓はあり、種はかくれて苗は現に見ゆ。法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ、芝かるれば蘭なく。情なき草木すら此くの如し。何に況んや情あらんをや、又父子の契りをや。彼の諷誦に云はく『慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す』等云云」



 【意訳】

子供である法蓮上人(曽谷教信)の御身の上に、亡くなられた父上の容姿を見ることができます。例えば、種が苗となるようなものであり、咲いた花が果実をつけるようなものです。その華(父上)の散った後には果実(子)が残されています。種は苗となって育っております。法蓮上人が法華経の修行によって戴いた功徳は亡くなった父上の財宝となります。その関係は、松が成長すれば柏も高く伸びるように、また、芝が枯れてしまうと蘭も枯れてしまうようなものです。非情の草木ですらこのような関係ですから、有情の人界に生を受けている私たちはなおさらでしょう。まして親子という深い縁です。あなたのかかれた文には「慈父の臨終の朝より十三回忌の今日にいたるまで、御本尊様の前で自我偈を読誦して亡き方に回向しております」とありました。



【回向の意味】

 回向は、仏教独特の教えで、「回し向かわす」という意味です。亡くなった方を信仰の対象として手を合わせるのではなく、亡くなった方の成仏を願って御本尊様に向かい読経唱題をして頂いた功徳を亡き方に贈ることを言います。またその功徳は、亡き方を思って追善供養に励む方に回り向かわされる、というのが回向の本質です。

 したがって、残された方々のご信心が大事になるのです。既成の仏教各派では、僧侶にお経を読んでもらってそれでことが足りる、としますが、それは本来の仏教ではありません。大切なことは、曽谷教信(法蓮)のように、日々の勤行唱題を根本にして、日蓮大聖人様が教えて下さる僧俗和合した化儀によって追善供養を執りおこなうことです。その修行が御本尊様の功徳を亡き方に贈ることであり、真の回向の意義です。当抄は回向の意義を教えて下さる大切な御書です。
支部総登山感想
壮年部  Tさん

 例年より一月早い支部総登山、バスは雨空の下を一路大石寺へ。濡れた車道を登って右に、北山本門寺を見れば程無くして到着です。

 御開扉は十一時。奉安堂に通じる塔中の清流が、いつもより勢いを増して流れていくのを見ながら歩きます。雨水をたたえた石畳の紋様が、きれいだなと気づくことが出来るのも、兎角足元に目がいく雨の日ならではのことでしょうか。この石畳の上を、七百余年前も同じように当時の信者の方々が、様々な思いで御目通りに向かわれたのだなあと、感慨深く思ったりします。

 御開扉が終わりたたんだ傘を持って、食事所西村へ。テーブルをはさんで初登山の方の感想や質問を聞いたり、信心の長い人の話を伺ったり。座談会では感動のミニ体験に共感し、感心しているうちに、もう下山の時刻がせまっています。

 総坊を抜けて帰りのバスへ向かう道すがら、かつて自分が折伏させていただき、一度は登山しながらもやがて離れていった人のことが、偲ばれます。いつの日にかまた一緒にお登山出来ますようにと御祈念しつつ、荘厳静寂なる大石寺をあとにしました。

 この度の支部総登山の運営にあたられた方々には、深く御礼申し上げます。



婦人部  Kさん

 私は九月五日初めて日蓮正宗の総本山である大石寺に参詣させて頂きました。最初目にとまったのは、小雨降る芝生の中に、くっきりと浮かんで見えた大きな赤い門でした。笠原御住職様のご説明で、この建物は三門と呼び徳川将軍の家宣の正室である天英院という方の御供養で建立された事を知りました。

 十一時に御開扉があるということで、長い石畳の道を歩いていきました。右に左にたくさんのお寺(坊)がありました。

 一際大きな建物に入り、たくさんの御僧侶にびっくり致しました。御法主上人猊下のお声に合わせお経を唱えお題目を上げました。大御本尊様をしっかり見据えつつ、自分のこと、子供のこと、孫のこととお願いしているうちに、感激の余り涙が出て止まらなくなりました。御開扉を終え表に出ると雨もやみ、何故か気分も晴れ晴れとしておりました。

 また、大石寺のあまりの広大さにも驚きました。この信心をはじめてまだ一年もたっておりませんが、何故か目に見えない何かに導かれて、良い方向に行く事を感じております。入信できて本当に良かったと思っております。

 これからも御住職様の御指導のもと信心に励みたいと決意致しました。
法華講だより
 インドネシアの法華講員からのメールです。彼は、ジャカルタでITの会社を営んでいる一九七七年からの古い法華講員です。

 豪州大使館が爆破された日、その大使館の正面のビルから十時半にソフトのインストールを請け負っていた彼の会社では、九時半に社員が向かいますが途中で携帯がなり、仕事は午後に延ばされて社員は帰ってきました。

 なんと爆弾が爆発した時間はきっかり十時半でした。彼の言う、「勤行が自分だけでなく周りの人も救う」という言葉に重みを感じました。

→(I strongly believe that the importance of daily Gongyo & Daimoku, not only ourselves will get the benefits, but also our surrounding people.)
編集後記

 前人未到262本。なんて奴だイチロー!野球に余り関心のない私も、毎日飛び込んでくる記録更新のニュースに心を躍らせた。

 さて、この大記録達成の裏側を明らめようと様々な論が展開されているが、「イチローにはどんな玉でも打ち返せる自分のリズムがあった。」とは御住職様の言葉だ。さらに、「個々の生活においても、みんなの活動においても、しっかりとしたリズムを持つ事。それはお題目をきちんと唱えていくという事。そうしたらもっともっと上手く回りだすよ。」と。

 居合わせた一同、今まで何とかなってしまっていた部分への甘えに気づかされた。と同時に、目標に向かって前進する事に、もっと貪欲になるべき時であるとの思いを強くした。

文責編集部 転載複写等禁止



Home http://www.butujoji.jp/