平成17年2月号
御指導

佐渡の国法華講衆御中 (歴代法主全集一巻一八三頁)

この法門はしでし師弟子をただ糺して仏に成り候。師弟子だにもたが違い候へば、同じく法華を持ちまいらせて候へども、むけん無間じごく地獄にお堕ち候也


【現代語訳】
 日蓮大聖人様の仏法は師匠と弟子の筋道を糺(ただ)して成仏の功徳を得ることができる教えです。師匠と弟子の筋道が違えば、同じように御本尊様を持っていても無間地獄に堕ちてしまいます。

《日蓮大聖人と佐渡》
 この御文は、日興上人が佐渡の国の法華講衆に与えられたものです。佐渡は大聖人様が配流された地です。その地で、日蓮大聖人様の折伏を受けた阿仏房や千日尼をはじめとする多くの人たちが法華経の信仰を持ち、南無妙法蓮華経と唱えるようになりました。
 阿仏房たちは、大聖人様のことを、「阿弥陀仏の怨敵、幕府の罪人の日蓮」と聞かされており、「憎き日蓮房の首を取ってしまえ」と、徒党を組んで塚原の配所に押しかけました。しかし、そこで、朗々とお題目を唱えられる大聖人様の御尊容(ごそんよう)に打たれ、即座に念仏の信仰を投げ捨てて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるようになりました。
 大聖人が御入滅になられた後は、日興上人を血脈相承をお受けした第二祖と仰ぎ、大聖人が御在世の時と同じように日興上人にお仕えしました。ところが大聖人の仰せに背き、釈尊の像に向かって南無妙法蓮華経と唱える邪義を勧める輩が出現しました。そのことを聞かれた日興上人がこの御文で信仰の筋道を教えて下さるのです。

《常随給仕》
 佐渡の島の法華講衆は、日興上人様が大聖人様にお仕えする姿、いわゆる「常随給仕」の修行を目の当たりにして、千日尼たちも末法の御本仏日蓮大聖人様にお仕えする、「師弟子の筋道」を立てた信心に励みました。古歌の「法華経を我が得しことは薪とり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」は、法華経の提婆達多品での修行を読んだものですが、大聖人様が佐渡に滞在されている間の法華講衆の感動的な外護の姿は、この法華経で説かれる修行を佐渡の地にうつしたものであると言えます。このことは、『阿仏房御書』や『千日尼御返事』などの御書に示されている通りです。

《師弟相対》
 日興上人は「糺して」と仰せになります。「 糺す」は「糾す」で「質す」のことです。字のもつ意味は、からんだ糸を解きほぐす、正しくする、糺明(きゅうめい)は、調べて明らかにすること、疑問を解決すること、等の意です。したがって、「師弟子を糺して」は、正しい師から導きを得て初めて成仏がある、との意になります。
 また、「糾す」には「あざなう」という意味もあります。すなわち師と弟子が互いに助けあうということです。師に仕
え、師を助け師弟共に広宣流布に邁進する姿を表されているのです。
 さらに「師弟子だにも違い候えば」と仰せになり、重ねて、師に弟子が相対してゆくことが大切である、と述べられます。「師」は末法の御本仏ですから絶対の「師」です。その師に相対する、すなわち「師と同じように」ということです。
 この御指南は、『一代聖教大意』の
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(九二頁)
と全く同じ意味であり、また『日興遺誡置文』に
「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」( 一八八四頁)
と仰せ下さるものと同一です。
 この遺誡置文の意は、日蓮正宗の信仰は、日蓮大聖人の御書を心肝に染めて、その中に秘し沈められた文底の大事は、師から伝(さず)かってこそ初めて成仏の因となる、ということです。
 また、日寛上人は、
「師の所説の如く弟子これを修行す、これ如説修行なり」
と仰せになり、師の仰せのままに修行をすることの大切さを示されます。
 従って、日興上人の「佐渡の国法華講衆」での御指南は、大聖人の仰せのままに御本尊を持ち、お題目を唱えることにより成仏が叶うのであり、それに背くことは大謗法であるということです。つまり、私たち凡夫の心を中心として唱えるお題目ではなく、仏様の日蓮大聖人様のお心を中心としたお題目が大切なのです。そこに師の意味があるのです。
 このことを現在の私たちの信仰から拝すれば、大聖人様からの唯授一人の血脈を御所持遊ばされる日顕上人を師として、御書を拝しお題目を唱えることが「師弟子を糺して」信仰をすることになります。その功徳は「無間地獄」には絶対に堕ちない功徳、即ち成仏の功徳なのです。
 現在も「お題目は同じ」といって、大聖人様以来の唯授一人の血脈を御所持遊ばされる日顕上人に対して誹謗悪口の限りをなす輩がおります。師敵対の大謗法なのですが、彼らはそのことに気づいておりません。「同じく法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也」の日興上人の御指南は今の彼らに与えられたものといえます。故に私達がこの日興上人の御指南を伝え、無間地獄の苦しみから救ってあげようではありませんか。

《私たちにとって大切な二月》
 一年で一番寒い二月ですが、日蓮正宗にとっては古来より意義深き月とされております。それは、二月七日が日興上人の御遷化の日であり、十六日は大聖人様がお生まれになった日だからです。宗祖日蓮大聖人様と御開山日興上人に縁のある月が二月なのです。寒さが厳しい時ではありますが、
「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔より聞かず見ず。冬の秋とかへれることを。いまだ聞かず。法華経を信ずる人の凡夫となることを」 (『妙一尼御前御消息』八三二頁)
と大聖人様は仰せです。総本山から遠く離れた佐渡の地で、信仰の筋目を糾して成仏に邁進した法華講衆に負けないように、平成の私たちも、日顕上人の御指南を拝し、自行化他の信心に励み一生成仏の功徳を頂戴しようではありませんか。


【語句】
常随給仕(じょうずいきゅうじ)
常に師に随ってお仕えすること。隨は信伏随従のことで信じ伏して付き従うことから「信」をあらわし、給仕は行動のことであるから実践面をあらわす。ゆえに常随給仕とは、身と口と心の身・口・意の三業すべてにおいて師に仕えること。
勝ち組・負け組とはいうけれど・・
 「勝ち組」とか「負け組」、あるいは「勝ち犬」・「負け犬」という言葉が流布しております。いったいこのような言葉や考えはどのようなところから起こったものでしょうか。勝ち・負けだけで表現される二元的な考え方は果たして如何でしょうか。
 昔から、一流とか二流という言葉はありました。こちらは「一流会社」とか「三流の思想」、という使われ方をしました。差別化を図る意味では同じように感じますが、しかし、こちらの方は、一もあれば三もあるという考え方ですから救いのあるものではありませんか?
 はたして、勝ち負けがそんなに重要なことでしょうか。たとえ勝ったとしても永遠に勝ち続けることは不可能です。どんなに強いチームでも常勝はあり得ません。常勝などというものは愚人の妄想以外の何ものでもないのです。
 また、勝ち方にもいろいろあります。正々堂々とした勝利ばかりとはいえません。卑怯な方法を用いて勝利したとすれば・・・。如何でしょう。はたして勝った、といえるでしょうか?
 反対にたとえ負けたとしても潔い負け方もあります。このことは歴史が教えてくれます。敗者が勝者以上の名誉を得ることも少なくありません。
 したがって、勝ち負けだけを価値基準にして物事を判釈するのは大きな誤りであることに気づくのです。勝ち負けに必要以上にこだわっては本質を見誤り、結果として大切なものを失ってしまいます。
 その見本が池田大作です。池田大作は低俗な勝ち負けの理論を信仰の世界に持ち込み、会員を洗脳しました。彼の弟子と称する人々は、「三年後の勝負ね。どっちが勝つか」と言うのが口癖になっておりますがそれが何よりの証拠です。常に勝ち続けなければならない、という思いに囚われているのです。
 そのような池田思想を体現する政党が政権与党になり恣意的な政治を行っているのですから、世の中が「勝ち負け」の二元論になっても不思議ではありません。悪世になる因は誤った宗教とその教えが元にあるとは『立正安国論』のお言葉ですが、今がその時です。
 大聖人様は、『御義口伝』の中で、
「桜梅桃李の己が位己が体を改めずして無作の三身と開覚す」(一七九七頁)
と述べられ、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李のままで存在する意義がある、と教えて下さいます。またこの御文から、たとえ負けたとしても負けたことに意義があるのだ、と励まして下さる仏様の御慈悲を感じる事ができます。勝負のみにこだわっていたならば、『御義口伝』の深い御教えは理解できないでしょう。同じように、世の中には無駄なものは一つもない、ということもこの御文から学ぶことができます。
 「善・悪」、「勝ち・負け」などの低級な二元論に惑わされることなく、御本尊様の光に照らしだされた自己をしっかりと見つめることのできる人生が素晴らしいのです。そのような境界を仏界というのです。観心の御本尊様の教えは一元論や二元論を超越する教えなのです。
中級教学試験行わる
 一月二十三日午後一時より、中級の教学試験が佛乗寺本堂を会場に開催され、多くの老若男女が挑戦した。受験者は昨年から数回に渡って開かれた勉強会に参加したり、配られたテキストを自分なりにノートにまとめるなど各自懸命に取り組みこの日を迎えた。
 ある婦人部の方は、お友達と互いに励ましあって、お寺の夕勤行に毎日参詣することを決意し、勉強を頑張りましたと、はつらつと話してくださった。
 参加者一同、試験に向かって努力した日々によって、自らの信心をより堅固なものに成長させていただき、「僧俗前進の年」に相応しいスタートを切ることが出来た。


 御住職より 〜 中級の教学試験に挑戦された方に 〜

 我が身貧にして布施すべき宝なくば 我が身命を捨て仏法を得べき便りあらば 身命を捨てゝ仏法を学すべし とても此の身は徒に山野の土と成るべし 惜しみても何かせん 惜しむとも惜しみとぐべからず 人久しといえども百年には過ぎず 其の間の事は但一睡の夢ぞかし (松野殿御返事・一〇五二頁)松野殿に与えた御文。
 意は、命懸けで仏法を学ぼうではないか。雪山童子が半偈を聞くために命を投げたように。現在の我らは、半偈よりさらに素晴らしい南無妙法蓮華経の御本尊の教えを持っているのだ。それを学ぶことなく過ごすのではあまりにも無慚。命は長らえたとしても百を超すことはあるまい。いつかは山野に土となって帰る身だ。価値ある身ではない。惜しんだところで命が延びるわけでもない。一睡の夢の如き命を惜しむよりも、命を懸けて仏法を学ぶことだ。人生とは、生命とは、己とは、生きるとは・・・。
 大聖人様は何故にかくも厳しく仰せになるのでしょうか。それは、大聖人の仏法が「生・老・病・死」の四苦を解決する根本の教えだからです。また、私たちの命を大切に思われている仏様の慈悲の上からのお言葉なのです。
 仕事の時間を工面し、睡眠時間を割いてテキストを開き、御書の一文を、我が心で汲み取るとき、私たち凡夫の生命の奥底に仏の生命が宿ります。そのとき、この問題を解決することができるのです。そして、心の奥底から湧き上がる力強い生命の力によって、煩悩を菩提に転換し、迷うことなく、惑うことなく歩むことができるのです。ゆえに厳しく難しいのです。
 このようにして励んだ功徳の大きさを天より四種の花ふり 虚空に音楽聞こえて 諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき 娯楽快楽し給ふぞや 我等も其の数に列なりて遊戯し楽しむべき事はや近づけりと教えて下さいます。
 仰せの意味は、大空からふりそそぐ花や妙なる調べに、身も心もいやされ、多くの仏様に懐かれ、思うままに遊び戯れる楽しみのときはもう目前にある、ということです。
 大聖人様は、このように命懸けで仏法を学ぶことの大切さを松野殿を通して教えて下さいます。今回の教学試験にチャレンジされた仏乗寺の皆さまは、大聖人様のお心に叶う修行をされたことになります。有り難いことです。素晴らしいことです。
 そこで申し上げます。結果は重要ではありません。結果を気にしないこと。なぜなら、年齢や体調や仕事や家庭のことや学校や、と人それぞれです。ですから、御本尊様だけがご承知のことでよいのです。点数は凡夫がつけるものですから。結果を恥じることはありません。勝ち負けなどはないのです。大切なのは、「この場にいること」です。それで十分なのですから胸を張りましょう。
 この度の試験で久しぶりに机に向かった、という方も多いのではないかと拝察しますが、あらゆる面において、一歩前進する機会となりますことを確信いたします。本日は御苦労さまでした。またお疲れ様でした。ますますのご精進をお祈りいたします。
意義深き二月
 今月は、三日に節分会が、七日に日興上人の御講である興師会が、十六日には大聖人様の御誕生会が奉修されます。それぞれの意義について正しく理解し、報恩の志深く参詣させて頂きましょう。

宗祖日蓮大聖人御誕生会(十六日)

 日蓮大聖人は、貞応元年二月十六日、安房国小湊(現在の千葉県天津小湊町)において、父三国大夫(貫名次郎)重忠と、母・梅菊女のもとに漁師の家の子として御誕生になりました。
 これは、末法の謗法甚重の機根である一切衆生に成仏の道を示さんがために、御本仏御自らが示同凡夫のお姿をもって御出生あそばされたからなのです。
 『産湯相承事』には、大聖人の御出生の際に、不思議な種々の瑞相があったことが記されており、また『百六箇抄』には、「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹」(御書一六八五)とあるように、その本地は久遠元初の自受用報身如来であることが示されています。
 したがって、二月十六日というのは、一応、凡夫の日蓮大聖人が御誕生あそばされた日と考えますが、再応は久遠元初の御本仏が末法の一切衆生救済のために御出現あそばされた日と拝し、お祝いを申し上げるのです。


節分会(三日)

 節分は、立春の前日に行われる日本古来の慣習です。日蓮正宗の寺院では御本尊様に読経唱題し、豆まきを行いますが、いつ頃からそのように奉修されるようになったのでしょうか。
 『大日蓮』大正六年二月号に「深川法道会の節分会執行」と題して次のような記事があります。
 「例年の通り三日の節分会式は当日午後六時より祈念法要あり大石貌下御導師にて厳粛に勤めらる。本年は殊に盛大を極め賑々しく挙げられたり。何にせよ年男丗五人と云ふ大勢の面々が四斗からの大豆を撤きちらすのであるから、堂内の参集者は恰も野原で大霰にでも逢ふたるが如く、騒ぎ一方ならざりき。中にもお婦人方にてお小児を連れ、満場立錐の余地なきに身動きならずして小児は悲鳴を挙げ叫びたるが如きは、如何に当日の盛況なりしかを想はしむ。参集者の概算無量千余名堂の内外は人波に騒げり」この総本山第五六世日應上人の法道院での行事が手本となっています。さあ、私達もこの記事に負けないよう声を掛け合い、また新来者をお誘いして皆で賑やかに参詣しましょう。
編集後記
 二月十六日、今年の御誕生会は総本山に参詣させて頂く事になった。会社の上司であり

 佛乗寺の同志である方が、仕事が終わった後、丑寅勤行からお登山しようと誘ってくれたからである。本当にありがたいことである。

 本山の御誕生会に参詣するのは二度目になるが、これが非常に寒い。一年で最も寒い時期の早朝であるから当然のことではある。

 その澄み切った空気の中にそびえる五重塔に御法主上人猊下がお出ましになり、読経唱題の後甚深の御説法を下さる。これは「お塔開き」と称され、大聖人の末法御出現を現わしているのだそうだ。また、五重塔が西の方を向いているのは、大聖人様の仏法が中国・印度を経て世界に広宣流布する様子を、太陽が東から昇って西を照らし全世界に光明をおよぼすのになぞらえていると聞く。

 まだ、参詣された事のない方、御都合がよろしければぜひ御一緒いたしましょう。

 今なら若干車にも余裕があるそうですよ。ゴーゴーレッツゴー

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日蓮正宗向陽山佛乗寺