平成17年3月号
御指導

『上野殿御返事』(一三六一頁)         永代経・平成十七年二月一日

 涌出品は日蓮がためにはすこしよしみある品なり。其の故は上行菩薩等の末法に出現して、南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり。しかるに先づ日蓮一人出来す。六万恒沙の菩薩よりさだめて忠賞をかほるべしと思へばたのもしき事なり。とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ。殿一人にかぎるべからず。信心をすすめ給ひて過去の父母等をすくわせ給へ。日蓮生まれし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思ふばかりなり。

【意訳】

法華経の従地涌出品第十五は、日蓮にとって少なからず因縁のあるものです。その理由は、末法に南無妙法蓮華経を弘める使命がある地涌の菩薩が、大地から涌現することが説かれるからです。そのような訳ですから、まず日蓮が先だってこの末法に出現したのです。ガンジス川の砂の数の六万倍と説かれる地涌の菩薩たちから、必ずこの忠孝を褒めて下さると思えば心強いかぎりです。

 どのようなことがありましても、この御本尊様にすべてを任せ、心から信じなさい。あなた一人のご信心であってはなりません。そのわけは、まわりの人たちに信心を勧めることによりはじめて大きな功徳が得られるからです。そして得た功徳は、亡き父母をはじめとするご先祖を助けることになります。

 日蓮は生まれてから今日まで一日片時も心が安らかになったことはありません。なぜならば、この法華経のお題目をすべての人たちとともに唱えたいという大きな願いがあるからです。大願を成就したときにはじめて心は安らかになります。


【要点】

 お経文には、釈尊が入滅されて二千年を経過した時代を「末法」といい、釈尊の教えの効力が消滅すると説かれております。そして、末法には末法の仏様がお出ましになり人々を導いて下さる、と説かれております。その仏様が「日蓮大聖人」であられ、教えが「南無妙法蓮華経」なのです。「涌出品〜たのもしきことなり」がその意です。したがって、日蓮大聖人様の仰せは仏様のお言葉であり、御書の一文一句はお経文と全く同じである、と拝するのが日蓮正宗の教義です。 

 その末法の仏様が「とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ」と仰せです。すべては御本尊様にお任せしなさい、ということです。言葉をかえれば、「潔(いさぎよ)い信仰」といえます。あちこちに脇目を振らずに、御本尊様一筋、ということです。「無疑曰信」ともいいます。「仏の仰せを疑わない信仰」です。とはいえ、盲信であってはなりません。そこで法華経を引かれ、「盲信」を戒められるのです。つまり、釈尊は法華経に真実を説かれ、さらにその経文の文の奧底には末法の教えの筋道がハッキリと記されており、そこから導かれた結論として「南無妙法蓮華経の五字」こそ根本の法であること、そして、日蓮がその法を所持しているのだから安心をして日蓮のいうことを信じ精進すべきである、と仰せになるのです。

 さらにまた、「殿一人にかぎるべからず」を見逃してはなりません。それは、末法にあっては折伏こそが仏道修行であり、自己のみの成仏を願う修行には功徳がない、と明示された御文だからです。 

 このように、総本山大石寺を建立寄進した南条時光でさえ、「折伏をしなさい」と大聖人様からのご指導があるのですから、私たちが「折伏をしましょう」と耳にタコができるほどいわれるのはあたりまえですね。日顕上人が「一人が一人の折伏」と仰せ下さらなければ、私たちは懈怠(なまけもの)の信心になってしまうところです。

 次の、「信心をすすめ給ひて」以下で、折伏には自らの成仏ばかりではなく、亡くなった両親や先祖を成仏に導く大きな功徳があることを教えてくださるものです。これは、生きている人ばかりか亡き人をも救うことができる折伏の功徳の大きさが明かされる御文です。

 さて、「日蓮〜心やすきことなし〜弘めんと思うばかりなり」とのお言葉を拝して、皆さまはどのように感じましたか。御本仏の大きな大きなご慈悲にただただ感謝です。

 寒い季節ではありますが、「冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息・八三二頁)とあります。厳しい冬の修行があって春を迎える喜びも大きいのです。コタツに入ってのぬくぬくとした修行には春の喜びはありません。功徳もまたしかり。励みましょう。自行化他のご信心に。
『塔婆供養』
=Q&A=
今月は春季彼岸会が奉修されます。御塔婆供養の意義と功徳について正しく学び、確信と自信を持って実践してまいりましょう。

Q@.どうして塔婆を立てるの?

A.大聖人が塔婆の建立を勧めて下さるからです。『草木成仏口決』(五二二頁)には、
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
とあります。塔婆供養は死後の生命の成仏であることを教えて下さっております。ただし、ここで注意をしなければならないことは、塔婆を建立さえすればよい、というのではありません。お題目を認めた塔婆でなくてはなりません。そして、大御本尊様の御力がなくてはなりません。ゆえに、日蓮正宗の寺院に参詣し、御本尊様の前に塔婆を建てて回向することが肝要なのです。
QA.創価学会では「塔婆供養は御書にはない。江戸時代の檀家制度の悪弊・僧侶のお金儲けの手段である」と言っていますが?

A.このような指導こそ、日蓮大聖人の教えを創価学会が破壊している何よりの証拠です。『中興入道御消息』( 一四三四頁)にハッキリと塔婆供養の意義が述べられております。
「去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ」
とあります。幼くして亡くなった娘の十三回忌に高さ六尺(一メートル八十センチ)の塔婆を建立したことが明らかです。さらに続いて、
「此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ」
と仰せになり、この後の追善供養にも、お題目を認めた塔婆を建立しなさい、と御指南下さるのです。これらの御文を拝していながら、どうして塔婆供養が御書にはない、といえるのでしょうか。江戸時代どころか大聖人様が直々に仰せのことです。また、創価学会の言動は、大聖人様が「お金儲けをしていた」と言っているに等しい謗法の言葉です。彼らの御書根本は都合の良いところだけの、混乱した解釈であり、困ったものです。「御書根本」ではなく、「御書混本・困本」でしょう。
 私たち法華講衆は素直な心で、大聖人様が教えて下さったままに信心修行に励むことができます。過去世からの福徳に感謝しましょう。
QB.創価学会では、「生きている私たちが勤行唱題をして御本尊に亡き人の成仏を祈っているのだから僧侶に追善供養を願ったりする必要はない、まして塔婆供養などは」と指導しているようですが?

A.私たちが日々勤行唱題をすることは大切なことであり、日蓮大聖人の信仰をしている者であれば当然の修行です。(もっとも彼らは最近では勤行はしなくなったようです)
 しかし、大聖人が南条時光に与えられた御書を拝すると、この質問がいかに自己を中心とした信仰であるかを知ることができます。創価学会では大聖人の仏法を「日蓮仏法」といい、その教えの根幹は「人間主義」にある、といいます。彼らの主張する人間主義とは、人間中心主義であり、聖教新聞などの一面を見るだけで、「池田大作中心主義」であることは明らかです。勲章や名誉称号が「現証」です。我田引水により日蓮大聖人の仏法を乱し、会員を地獄に引き入れております。そのような心から起こる「慢心」ともいえる言葉です。
 そこで、御書には追善供養に関してどのように御指南下さっているかを拝してみましょう。
 『上野殿御返事』(一四六三頁)には、
「故上野殿御忌日の僧膳料米一たはら、たしかに給び候ひ畢んぬ。御仏に供しまいらせて、自我偈一巻よみまいらせ候べし」
とあります。
 この御文から、大聖人が南条時光の願い出を受けて、亡き父の祥月命日に読経唱題をしてご回向をして下さったことが明らかではありませんか。
 南条時光についてはいまさら申し上げることもありません。
「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」
(米穀御書・一二四二頁)
と大聖人から命ぜられたのは時光十九歳の時であり、翌年には「上野賢人」と不自惜身命の信心を讃えられる時光です。この時光に与えられた追善供養に関する御書であることをよくよく考えなければなりません。
 遺された者がしっかりと信心をしておればよい、わざわざ僧侶に追善供養を願ったりする必要はない、というのであれば、何故大聖人は時光の願い出を受け、亡き父親の祥月命日の追善供養を執り行われたのでしょうか。御供養を御本尊様にお供えし、その前で自我偈の読経をされたのでしょうか。それとも南条時光の信仰はいまの学会員以下の信仰だったとでも言いたいのでしょうか。
 ここが自己を中心とした信仰か、御本尊様を中心とした信仰かの分かれ目です。またご都合主義の信仰と真剣に成仏を願う信仰の違いです。功徳の人生か無間地獄の人生かの分岐点です。
『上野殿尼御前御返事』(三三八頁)には、
「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給ふ」
とあります。夫に先だたれた上野尼に与えられた御文です。この御文から大聖人様は追善供養を信心修行の一環である、と教えて下さっていることがわかります。「心を九識に持つ」とは内面の修行に約されたお言葉で、御本尊様に対する絶対の確信を教えられたものです。また「修行を六識にせよ」とは、外面に現れる姿のことで、実践に訳されたものです。勤行唱題、折伏行も実践です。内面と外面、この二つが合わさって真実の追善供養になる、と仰せになるのです。
 この御指南を私たちの上にあてはめて考えてみますと、御本尊の仏力・法力を信じる時がそのまま、「心を九識に持つ」ということになります。勤行唱題をし、折伏行を通して、生きている友のことを祈り、さらに、追善供養では亡き方々のことを思う姿は、「修行をば六識にせよ」というご教示を実践していることになります。まさに身口意の三業の上からの信心修行であるといえます。
 多くの制約のある中で、御本尊様を中心とした信仰は「難しき事」です。凡夫はどうしても「易き事」に流されてしまいます。そのような風潮を増長させるのが創価学会のようなあり方であり、「凡夫中心主義」なのです。このような邪な思想に毒されることなく、日蓮大聖人が教えて下さったままに追善供養を伝える日蓮正宗の富士大石寺の化儀を守ることが、一生成仏の功徳を受けることのできる唯一の方法です。
QC.塔婆供養は形式ではないのですか?

A.形式ではありません。『中興入道御消息』(一四三四頁)を拝してみましょう。
「法華経の行者をやしなはせ給ひて、としどしに千里の道をおくりむかへ、去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん」
と仰せです。
「法華経の行者をやしなはせ給ひて、としどしに千里の道をおくりむかへ」
 中興入道たちが、佐渡の島から大聖人のもとまで毎年足を運んでいたこと、すなわち登山参詣をしたいたことがこのところから拝せられます。法華経の行者は大聖人様ですから、大聖人様に御供養したことも明らかです。
「去りぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてゝ、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば」
 ここでは、幼くして亡くなった娘さんの十三回忌が執り行われていたことを知ることができます。その時に高さ一メートル八十センチの塔婆を建立したことも明らかです。さらにお塔婆には日蓮大聖人様が教えて下さるお題目がしたためられていたことも明瞭です。佐渡の島は念仏の多いところでしたから中興入道一家も念仏信仰に励んでいたことでしょう。ところが、大聖人様の折伏を受けて念仏の信仰をあらためて南無妙法蓮華経とお題目を唱えるようになって初めての回忌法要であったと考えられます。ですからあらためて法華経のお題目を認めた塔婆を建立する功徳を教えて下さったのです。
「北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや」
 塔婆を建立することの具体的な功徳をご教示になるところです。建立した塔婆に北や東の風が吹いてくれば風下にあって塔婆のお題目の風にふれた畜生界の衆生でさえ成仏の境界を得ることができる功徳がある、と仰せです。風にふれるだけで、しかも畜生であってもこのような大きな功徳に浴することができるのであるから、人界の衆生の受けることができる功徳の大きさを対比をして教えて下さる箇所です。
「過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし」
 そこで、過去の父母、つまり亡くなったお父さんやお母さんも塔婆供養の功徳を受け、成仏が叶う、と仰せになります。また、
「孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて」
と仰せ下さり、亡くなった方ばかりか、生きて塔婆を建立する人たちにも大きな功徳があることをご教示下さります。それは、寿命を百二十歳までの長きにわたって持つことができる、ということで明らかです。
「後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん」
 ここは、来世においても今生の修行により成仏は間違いのないものである、と教えて下さるところです。
また、ここは私たちの三世にあてはめて拝することもできます。それは、「過去の父母」は過去世に、「孝養の妻子」は現世に、そして「後生」はもちろん来世です。
 過去の罪障を消滅することを「日月に照らされる」と。照らすとは消滅の義です。暗いところがないように照らしだすのですからすべてが明らかになる、ということは消え去ることに通じます。ゆえに過去世の罪障を消滅することになります。
 現世での功徳を寿命に例えて仰せになる意は、死苦からの解放の意があるように思います。現世の苦悩は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦(あいべつりく・愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(おんぞうえく・怨み憎む者と会わなければならない苦しみ)、求不得苦(ぐふとっく・求めても得ることができない苦しみや、努力をしても結果が出ないと苦しむこと)、五陰盛苦(ごおんじょうく・色・受・想・行・識の五陰から生ずる苦しみ。ようするに、生存自体の苦のこと)の四苦を会わせた八苦ですが、その中でも死苦はとくに切実です。
 なぜ死苦が切実であるかはそれぞれが十二分に理解しているところですからここで論じる必要はないでしょう。そしてその苦しみを解決しようとして古今東西の宗教や哲学があるのです。
 大聖人は「死は苦しいものでも恐れるものでもない」と仰せになります。そして、
「臨終のことを習ひて他事を習へ」
と御指南下さるのです。臨終から逃れようとするのではなく、生まれたからには必ず臨終があるのだから、今生の終わりを見つめることが大切である、というのです。そこで、大聖人様は追善供養を御指南下さるのです。つまり、追善供養は臨終を習うことであり、臨終を習うことは死魔を克服することであり、死魔の克服は現世を悠々と生き抜く力となる、ということです。
 大聖人様の教えは、三世の生命を説き明かすものです。三世とは、過去世・現世・来世のことをいいます。この三世において、表面上では生命は変転するように見えても、その本質は不変である、ということです。これは、昨日・今日・明日に例えて考える事ができます。私たちは昨日から明日への連続の中で生活をしておりますが、死は眠ることであるといえます。ただし、昨日今日と明日との違いは記憶が残っているということです。それ以外はまったく同じであるといえます。昨日の深酒は二日酔いという結果を招きます。同じように今生の悪因は来世の悪果を予想するに十分です。苦しんで臨終を迎えたならばその苦しみは来世にまで持ち越されるのです。
魔の中でも死魔の苦しみは想像を絶すると説かれております。日頃からそのことを念頭に置いておかなければならないと、「臨終のことを習いて他事を習へ」と大聖人様がおおせになる意もここにあります。
 現世を良くし臨終を安らかにできれば、その命は持続して来世につながってゆきます。ゆえに「善処」に生ずることが叶うのです。したがって、大聖人が塔婆供養を勧められるのは、三世の生命観の上からの御指南であると拝さなくてはなりません。
 仏説造塔功徳経では、仏が波斯匿王に対して塔婆供養の功徳の偉大さを説かれております。それによりますと、寿命があと七日しかないといわれた波斯匿王が仏の勧めにしたがって塔婆を建てて供養をしたところ大功徳を受け寿命も延ばし幸福な一生をおくることができた、とあります。
 このように塔婆供養は形式ではありません。大切な修行であり、大きな功徳のある貴いことなのです。私たちは、確信と自信を持って、そして勇気を出して「日蓮正宗こそ大聖人の正しい教えがある」と伝えてまいりましょう。
節分会が賑やかに奉修
 二月三日立春の日、例年通り節分会が奉修された。法要は午後二時と七時の二回奉修され、御住職の導師で読経唱題の後、ご法話に引き続き、参詣者の中から代表者が、「福は内」の掛け声に合わせて豆まきをした。夕方は子供達も多数参詣し賑やかに奉修された。
二月度広布推進会
 春一番の吹いた二月二十三日、佛乗寺に於いて開かれた東京第二布教区の広布推進会で、折伏推進委員長の室井さんが登壇し、昨年の御住職様によるモンゴル出張御授戒に至った折伏の体験を披瀝し感動を呼んだ。前評判もあってか結集が全体で百名ほどオーバーし、本堂は満員の状態であった。
フィリピンで三世帯の折伏が成就
 婦人部の高橋さんは、今年一月に久々に故郷のフィリピンへ里帰りし、親戚を折伏、三世帯の御本尊下付が叶った。今回入講した方々は、その歓喜をもって唱題会を開き、そこに友人知人を誘って、さらに折伏の輪を広げているとのこと。我々も負けずに頑張りましょう。
御主人の折伏を四十年越しで成就
 二月度御講終了後、岩田さんの御主人の御授戒が行われた。婦人部岩田さんは今回の折伏について、「『色々あったけどこれまで一緒にやってこられたのは御本尊様のお蔭なのよ。だから一緒にお寺へ行きましょう。』と意を決して告げると、うなづいてくれたんです。」と満面の笑みで語ってくださった。おめでとうございます。
☆第23回支部総会のお知らせ☆
4月24日 午後2時開会 (1:30入場完了)
1年に1度の佛乗寺支部の総会です。みなさん誘い合わせてふるって参加しましょう!!
編集後記
 今月は彼岸会がある。十七日の木曜日が彼岸の入りになっているので、彼岸明け近くになって慌ててお寺に駆け込むことのないよう、ゆとりを持って準備しておきたい。

 はて、この「ゆとり」というのが、自らにとっても一歩成長への鍵ではないかとふと思う。いや、間違いない。

 それはさておき、広く世間に目を転ずると、自分と同世代の人たちは、仕事や様々な付き合い等の生活に追われて、なかなか御先祖のことに思いを馳せるような時間はないのではなかろうか。学校の成績、社会に出れば営業成績等、常に評価が付きまとい一喜一憂する。もちろんそれは社会で生き抜いていくために大事な事に違いないし、私達にも同じことが言える。

 しかし、お寺に来て先祖代々に対し感謝を込めてお塔婆をたて、御住職様とともに読経唱題し、御法話を戴く時、明らかに何か違う、時空を越えた心の「ゆとり」のようなものを感ずる事ができる気がする。それはきっと、御本尊様と常に共にあるという安心感といえるかもしれない。そして、この安心感こそが、争いでギスギスした世の中を平和にするもととして一人ひとりが持つべきものにふさわしいと確信する。

 折伏をしよう!

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日蓮正宗向陽山佛乗寺