平成17年6月号
御指導
平成十七年五月 御講拝読御書
『六難九易抄』(一二四三頁)


 当抄の題号は『六難九易抄』と付けられております。題号の由來となった「六難九易」とは、六種類の難しいことと九種類の易しいことです。法華経の見宝塔品第十一に説かれます。仏が入滅した後に、法華経を受け法華経を持つことの難しさを、六難と九易とを比べることで明らかにするものです。九易といっても私たちには想像を絶することがらですが、末法に南無妙法蓮華経と唱え御本尊様を受持することに比べれば、なお易しいことである、と説かれています。

 『開目抄』には、
「宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者、須弥山はなぐとも、我等程の無通の者、乾草を負ふて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」(五三九頁)
とあります。この御文の前段で大聖人様は、「一国謗法のゆえに、国中が悪道に堕ちていることを日蓮ただ一人が知っている。そのことをいうならば父母や兄弟や師匠に王難(国家の迫害)がある。このことを恐れていわなければ慈悲がないことになる。どうしようと考え法華経と涅槃経をみると、いわなければ今生ではなにごとも起こらないが、来世には無間地獄に堕ちることが定まっている、と説かれている。また、そのことをいったならば、三障四魔(三障は、煩悩障・業障・報障。四魔は、煩悩魔・陰魔〈生きていること自体に苦しみがあり、そのことが魔となる〉・死魔・天子魔)が起こる、と説かれている。しかし、いうべきである。とはいえ、王難が起こったときには、退転する恐れもがあるので、最初からいうのをやめた方がよいのでは、と躊躇する弱い心があった。ところが、宝塔品の六難九易の文を見て、法華経の教えを末代に説くことが難しいことを知り、更によく考えれば、このたびの佐渡流罪は、法華経に説かれたことを現身に体験している。そこで、今度こそは強い確信を持って退転しないように、との誓いを立てるのである」と六難九易についての仰せがあります。これは、大聖人様が、ご自身の苦難を通して、「法華経に説かれたようなことが起こる」ことを私たちに教えて下さり、それが、「法華経を身読する」ことであり、そこに過去世からの罪障消滅が叶い、即身成仏の大功徳がある、とご自身の身の上にあててご教示されるのです。法難に遭うことは法華経を身体で読んだ証明です。

 そこで、当抄の冒頭での仰せである法華経についての質問は「六難九易」の法華経を持っている証拠であるから、貴女の即身成仏は間違いがありません、とご信心を励まして下さるのです。

 つぎに、南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏に成ることが叶うか、という質問に対して、法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経でありお題目を唱えることは法華経一部を身読することになる、と仰せになり、このことは日蓮がいうのではなく天台大師がそのように教えている、と述べられ、お題目の功徳の大きさを御指南下さるのです。

 そして、ただいま拝読のところになります。

@ かゝる持ちやすく行じやすき法にて候を、末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給ひて候
とここで仰せになります。意は、「このように、持ちやすく修行しやすい教えを、仏は末代悪世に生きなければならない一切の衆生のために説きおかれたのである」となります。
「このように、持ちやすく修行しやすい」とは、法華経一部を全部読むことなく、苦しい難行苦行をすることなく、だだ御本尊様に向かってお題目を唱えるだけで、という意です。日蓮の修行は、お題目を唱えることにより成仏が叶う持ちやすく行じやすい教えである、と示されるのです。ここが大事なところですね。折伏に行きますと、日蓮正宗の教えは難しい、勤行が大変で私にはできない、と必ず言い尻込をする人が多くいます。これについて、『開目抄』を拝しますと、
「法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ、機をあながちに下し、理深解微と立て」(五三八頁)
とあります。淨土教の法然などが、法華経の教えは深く崇高であるから、末法の機根の低い者には理解ができないと言って、簡単と思われる念仏に引き入れようとします。当抄を与えられた「妙法尼」の周辺にも、念仏の者がいたのでしょう。ですから、念仏を破折する意味も込められています。

 最近の創価学会も念仏を師匠としたのでしょうか。お経は必要ない、題目だけでよい、と指導をしました。その理由として、海外の会員たちの要望をあげます。海外の会員がお経を覚えるのが難しいから、世界に適応した方法を採用したといいます。これは、謗法の罪や責任を海外の会員に押しつけた、池田流の非常に狡いやり方です。また海外会員は、経文を覚えることのできない劣る者、と位置づけたことになります。そして、法然や親鸞と同じやり方です。まさに現代の「一凶」です。

 私たちは、ただお題目を唱えるだけでよい、との仰せを深く信じ、御本尊様を護り「南無妙法蓮華経」と唱え、成仏を期することが肝要なのです。ただし、
「力あらば一文一句なりとも語らせ給うべし」を疎かにしてはなりません。おいしいケーキを一人だけで食べるのではなく、皆で分け合って食べるのが本当のおいしさです。何故ならば、分け合うことにより、舌ばかりではなく、心もおいしい、と感じることができます。ですから、折伏は大事です。

 そして次の経文を引用されます。

A 経文に云はく「於末法中」「於後末世、法欲滅時、受持読誦」「悪世末法時、能時是経者」「後五百歳中、広宣流布」と。此等の文の心は当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候
と。これらの経文は、いずれも末法に法華経が流布し、法華経のみが衆生を導く力のあることを説かれております。

【安楽行品十四には、「如来の滅後に、末法の中において」等。あるいは、「後の末世の、法滅せんと欲せん時において、この経典を受持し、読誦せん者」等。あるいは分別功徳品十七に、「悪世末法の時、よくこの経を持たん者」等。あるいは薬王菩薩本事品二十三には、「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提において広宣流布して断絶して、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等にその便りを得せしむこと無かれ」等と説かれています。これらの経文のように、末法には、法華経を持ち信じ成仏することが説かれているのです】

 ここで法華経の経文を引用されますが、それは、法華経のみが末法に生きている人々を成仏に導く教えであり、その法華経が末法に広く流布することが、大聖人様の言葉ではなく経文にあることを教える意味があります。このように、大聖人様は常に経文を引かれ、天台や妙楽の教えを引用して法を説かれます。このような姿勢は、邪教の宗派の祖師といわれる者たちにはありません。だから邪教(邪な教え)というのです。一例を挙げると、親鸞は歎異鈔の中で、「たとえ法然にだまされて、念仏を申して地獄に落ちるようなことがあっても後悔はしない」といっております。この言葉から、親鸞の信仰がわかります。結局彼らは経文も修行も不要なのです。無責任な言葉です。親鸞を宗祖と仰ぎ、浄土を願って念仏の題目を唱えている人たちはこのことをどのように考えているのでしょうか。たまったものではありませんね。いい加減な信仰を蔓延させた罪は深いといわねばなりません。これが「盲信」です。

 今日の創価学会も同じです。日蓮正宗で血脈の中にあって、御書を正しく拝読していた頃の話と、破門され血脈が通わなくなってからの話は正反対であることを指摘され、言葉に詰まったあげく、「池田先生を信じているから、地獄に堕ちてもかまわない」との捨てぜりふを吐き平然としております。そのくせ、目は虚ろで、不安を隠しきれないのです。哀れこの上ない、と彼らの姿を見て感じます。そして、我が身の幸福を感じます。先月の御講で学んだ御文「只正理をもって前とすべし」を思い出した方も多いでしょう。

 では、どうして念仏宗や創価学会のようになったか、それを教えて下さるのが次の御文です。
B かゝる明文を学しあやまりて、日本・漢土・天竺の謗法の学匠達、皆念仏者・真言・禅・律の小乗権教には随ひ行じて法華経を捨てはて候ひぬ。仏法にまどへるをばしろしめされず。形まことしげなれば、云ふ事も疑ひあらじと計り御信用候間、をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給ひて、今生には祈る諸願も虚しく、命もみじかく、後生には無間大城をすみかとすべしと正しく経文に見えて候
現代語に訳しますと、「法華経こそが末法の要法であるとの明らかな文があるにもかかわらず、誤って学んだことにより、日本や中国、またインドの学匠といわれる者たちは、皆、念仏者や真言宗や禅宗や律宗等の小乗の教えや権教の教えに随い修行をしました。その結果、ついに法華経を捨ててしまったのです。このように学匠たちが、仏法に惑っていることを知らない人々は、姿形が立派で尊く見えることから、言葉にも誤りはないと思い信用しているのです。そして、法華経を敵としているつもりはないけれども、いつの間にか法華経や釈尊の怨敵となってしまったのです。そのせいで、今生には祈りも叶わず、命も短くなり、来世には無間地獄に堕ちて苦しみを受けなくてはならない身になる、と経文に明らかです」となります。

 経文にはハッキリと説かれているのに、そのまま素直に読むことができないのは何故なんでしょうね。縁がないのでしょうか。『本因妙抄』には、
「但自見の僻目を本として予が立義を破失し三悪道に堕つべし大謗法の罪人なり」 (一六八三頁)
とあります。この、「自見」とは、浅はかな自らの考えのことで、自己流のことです。師を持たずに一人で悟ったような顔をしている者に対する忠告です。この御文の意は、「自己流の誤った考えを本にし、経文を本にして立てる日蓮の教えを守らないものは地獄・餓鬼・畜生の悪道に堕ちる大謗法の罪人になるのです」と。これは、『一代聖教大意』で
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(九二頁)
と示される御指南と同じであり、「自見」を戒める上からも、私たちが忘れてはならない大切なお言葉です。

 そもそも、中身がないものですから、「形まことしげなれば」にする必要があるのです。、「真し」とは本物である、正統である、ということです。そこに、接尾語の「げ」がつくと、本当らしく見える、外見上は、となります。ですから外見を飾るんです。仏教史の上で外見を飾って人々を惑わそうとした最初はあの提婆達多です。『法蓮抄』には
「提婆には三十相あり。二相かけたり。所謂白毫と千輻輪となり。仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思ひぬべしとて、蛍火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ、千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼けて大事になり」(八一三頁)
とあります。三十もの相が備わっているのですからすごいことだと思いますが、提婆達多は満足できなかったのですね。残りの二つ、眉間白豪相の代わりに蛍を付ける、千輻輪とは足の裏に千の輻輪からなる模様がついていることです。火傷をして大変なことになったとおおせです。勲章をぶら下げて、あるいは名誉称号をいっぱい買い集める誰かさんは、提婆達多を師匠としているのでしょう。

 さらに大切な御指南があります。それは「をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給ひて」というところです。これは『最蓮房御返事』の
「いかに我が身は正直にして、世間出世の賢人の名をとらんと存ずれども、悪人に親近すれば、自然に十度に二度三度其の教へに随ひ以て行くほどに、終に悪人になるなり」(五八六頁)
との御指南と同じですね。凡夫がいつの間にか謗法になっている怖さを教えて下さいます。これもよく経験することです。学会員を折伏すると、「私はあまり会合には出ないし、御本尊は変えていないから大丈夫」といいます。ですが、この御文から、籍があるだけで謗法になることがよくわかります。一刻も早く籍を抜いて、正しい日蓮正宗富士大石寺の信仰に立ち返ることを教えることが私たちの修行です。

 また、「今生には祈る諸願も虚しく、命もみじかく、後生には無間大城をすみかとすべし」との戒めをよくよく拝さなくてはなりません。反対に、この御文から、私たちは正しく御本尊様を拝み修行に励んでおります。ですから、今生の祈りは叶い、元気で長生きができ、来世には仏様のもとに生まれると日蓮大聖人様が保証して下さる功徳を受けることができます。

 自身の成仏のため、周りの人たちの成仏のために修行に励み、功徳をいっぱい頂戴しようではありませんか。日蓮大聖人様は必ず私たちの願いを聞き届けて下さいます。そのためにも折伏です。千所帯が目前です。ご精進ご精進
Tさんへの手紙
T 様

仏乗寺 笠原建道

若葉の季節となりましたが、世相は政治にしろ経済にしろ暗いニュースが満ち満ちております。

特に昨今の交通関連の事故は目を覆うばかりです。創価大学一期生といわれる北側某が大臣として君臨するところに不祥事が集中しているように思うのは私だけではないでしょう。犠牲者の方々の冥福を祈ると共に、何故そのようになるのか、思いをめぐらします。

事故だけではありません。昨年の異常気象や地震 も記憶に新しいところです。

そういえば、今年の四谷税務署の高額納税者に創価学会の職業幹部は何人いたのでしょうか。確か池田元総講頭の名もありました。先日は十数億の詐欺事件がありましたね。主犯は川村某という創価大学の一期生でした。養母は創価大学の教授だったようですね。宗門が金権体質である、と非難しますが、宗門には2億何千万円ものお金が入った金庫を棄てるようなこともなく、お金がなくなることを承知で創価学会の謗法を指摘しました。

お金がらみの事件が多いのも池田創価学会の特色として後世に記憶されるでしょう。

「池田大作からの手紙」といわれる新聞には、「我らは勝った」と常に書かれています。また、公明党が政権与党として国政に参画して自民党を動かしている等々の記事も目にします。

もし、創価学会が正しく、勝利しているのであれば、経済も思想も良くなっているはずですが如何でしょうか。事件や事故はなくなるはずです。ところが、公明党が政権与党となってからの方が日本は悪くなっていませんか。憲法に対する以前の公明党のスタンスはどうなってしまったのでしょうか。特に第九条については。

大切な政策がコロコロと変わる公明党、支持母体の創価学会も教えが良く変わりますね。最近は勤行を簡略化したそうですね。「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」の御指南のごとくです。

創価学会の信仰上の誤りが、公明党の姿に表れているのです。謗法とは怖いものだとつくづく感じます。

以前のTさんもそのことについて熱く語っていたではありませんか。それが、最近の言動では、第六天の魔王に魅入られたようになっているようですね。
何年か前に本堂で、「一度お伺いしてご家族にお話をしたいのですが」と申し上げましたら、「私の家は創価学会の勢力が強くて、とても話しを聞いてくれるような雰囲気ではありません」と仰って、家庭訪問を拒否されました。またこんな言葉も記憶にあります。「お寺からの郵便物も私の手元に届くかどうか、家の者が先に見たら捨てられるかも知れません。電話も取り次がれるかどうか」と。その時に、「厳しい環境での信仰はそれだけ功徳も多い」と申し上げ、報恩抄の「極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功に及ばず」の御文を拝したときに、声を詰まらせながら、「しっかり唱題をして、家族を折伏できるように頑張ります」といわれたときのお顔がとても輝いていたことを思い出します。その輝きは、富士大石寺に御安置の大御本尊様のもとで、血脈のある正しい信仰をしている、との自信と誇りから生まれたものであったと思います。

結局は『兄弟抄』にあるごとく、「第六天の魔王或は妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入って法華経の行者ををどし、或は父母の身に入って孝養の子をせむる事あり」となってしまったのでしょうか。

Tさん、今からでも遅くありません。大御本尊様のもとに帰るべきです。来世の成仏を願うのであれば。今生の楽しみは一睡の夢です。未来永劫の楽しみの修行をしましょう。創価学会員が受けている罰の現証をよく見てください。前述したのはほんの一例です。

仏乗寺の法華講員宅を訪問してくださっているようですが、その際に池田元総講頭の弟子どもを同道しているようですね。手紙に書いてあるような信念があるなら、お一人で回られたら如何ですか。一人で回ることが出来ないのはあなたに信念がない証拠です。戸田会長は「信なき言論は煙の如し」と指導をしておりました。

創価学会員もお寺にも決して一人では来ません。数を頼んで押し寄せる、意気地のない姿です。勇者とは正反対の集団ですね。そんなところにいても成仏は出来ませんよ。「日蓮が弟子は臆病にては叶うべからず」とあります。

繰り返します。懺悔し、一日も早く大御本尊様の信仰に立ち返りましょう。

この手紙がTさんの手に届くことと、正信に立ち返ることが出来ますことをご祈念しつつ投函します。

以上

この手紙はかつて仏乗寺の法華講員として信仰していた方に宛てたものです。御書には「魔が競う」とございますが、この方はまさにその通りになってしまいました。750年に向かった私たちの信仰には大きな難が押し寄せてまいります。特に仏乗寺は寺院の新築という大きな慶事を控えております。魔が出ないわけがありません。哀れなTさんも第六天の魔王に付け入られたのです。日蓮大聖人が「Tさんのようになってはなりませんよ」と教えて下さることです。この戒めを目の当たりにして、私たち仏乗寺法華講員が、一人も退転することなく成仏に向かって進んで行くためにも、この手紙を皆さまにお知らせしました。互いに堕ちることのないように励まし合って行きましょう。
Tさんが正信に立ち返ることを御本尊様にご祈念申し上げましょう。
体験発表
「折伏戦の報告」

私が、最近体験した学会員折伏の話をします。四月中旬、月一回のハローワークの日に前会社で一緒だった学会のIさんとバッタリ出会いました。以前から折伏しようと決めていたので、都合の良い日と電話番号を聞き、後日会う約束を取り付けました。「なに?なに?」と聞いて来るので、「訓練校の話とか、Iさん学会だったよね!学会の話が聞きたいな!」と言う返答をして別れました
私達は日頃から、笠原御住職様の御指導に「折伏は、慈悲の心を持ってさせて頂くものである。」と聞かされていましたから、Iさんに慈悲の心を持って一つ一つ、学会の誤りを破析していきました。流石に、返答に困って「日顕(猊下)が悪い!」「貴方たちが、可哀想!」と、答えにもならないほどでした。そろそろ時間(四時間)も経ったので、『折伏教本』『誰にでもわかる創価学会の誤り』『創価学会による御相承否定の邪難を摧く』等を渡し、目を覚ましてくださいね!と別れました。 それから一ヶ月後、読んでくれたかな?と思い連絡を入れると「会いたい!」との返事、「斉藤さん宅ではどう?」なんて言うもんだからつい「いいですよ!」と返事したものの、Iさんが一人で来るとは思えないし、学会は数人で来ると聞いてたから探りをいれ「何人で来るの?」すると、「三人かな?」と返事が返ってきました。すぐに、ヤバイ!と感じた私は、待ち合わせの一時間前に、場所の変更を連絡しました

木本さんと待ち合わせのファミリーレストランに行くと、Iさんともう一人Oさんがいました。Oさんも前会社の先輩で、私は、面識は有るもののあまり言葉を交わしたことが無いくらいの人だったので、この人が学会員という情報はありませんでした。だが今思えばこの時に、元会社仲間という変な仲間意識が出た為に危うく危ない目にあうところでした。 「ここじゃなんだから、場所を変えよう!」と相手は言ってきました。木本さんは、「ファミリーレストランでいいじゃないですか?」と食い下がるが、「知り合いの喫茶店だから!」とか、「近くだから!」という言葉に私が少し信用してしまい、木本さんの忠告も聞かず着いて行ってしまいました。 場所に着くと、そこは近くの町工場でした。木本さんが「喫茶店ではないじゃないですか?」と抵抗するが、「場所を借りているだけだから」などと言う始末、私も頭に血が昇ってたのか?冷静さを欠いていた私は建物の中に入ってしまいました。ある一室に通され部屋の仏壇を見た瞬間『これは、ヤバイ』と気付きました。造花のささった学会の仏壇がありました。しかも、Oさんの脇には創価学会の偏った情報が入った紙袋を見た瞬間『完全にヤバイ!』と思いました。 そうなると何時学会員が押しかけるかが気がかりで、帰る理由を探していました。「貴方がたは、嘘をついていた。」「そんな剣幕では、話にならない。」「初対面の彼女に失礼じゃないのか?」と問答をしている時、木本さんの機転で笠原御住職様の判断を私に告げ「私達は、帰ります。こういう、嘘をつく学会の人とは話しになりません。」と言い残し建物を後にしようとしたら、高校時代の同級生の学会Mがやって来ました。やって来るなり「なにしとる!話するんじゃないのか?斉藤、お前が法華講として動くなら立場的に邪魔してやる!覚えとけ!」と巻き舌の連発。帰る姿の私達に「逃げるんか〜二度と電話してくるな!」と怒鳴り散らしていました。

なんとか帰ったものの、なにも出来なかったことや、相手の紙袋を見た瞬間に『ヤバイ』と思ったことなど反省しきりでした。木本さんにも厳重注意を受け、「経験、経験」と言ってましたが、内心マズイなと思ってました。

それから数日後、あの学会員のIとOが我が家に来ました。どうやら学会について間違った認識をしているので話に来たと、言う事でした。まず、退職した会社がまたまた、早期退職を募るという世間話からスタートし、私が前回の貴方たちの態度(眉を吊り上げる、怒鳴る、巻き舌等)をまさに三悪道そのもので、学会も所詮その程度でしかない。と痛烈に批判したことでヒートアップしていきました。約二時間、玄関先にてバトルが繰り広げられました。 内容的には、日顕(猊下)には血脈がない。池田センセイは、最高の指導者だ。正本堂を破壊した。寺院も寄進した。ここまで大きくしたのは、学会である。学会を日顕(猊下)が切った。日顕(猊下)はセンセイに嫉妬している。大石寺はペンペン草が生えている等、折伏教本の内容そのもので、教本を手にしてはいませんでしたが、一つずつ破折していきました。 ズバッと言えば、話題を変え、とても人の言うことをまじめに聞く輩ではありませんでした。ですが、正直なところ前回は相手の「情報収集」の封筒を見て、『ヤバイ』と感じてしまった自分が居たのですが、今回は相手も丸腰で自分と同じじゃないかと思い、やけに冷静な自分が居ました。これも、御本尊様の御力なのか!と感じたりもしました。 「本山に登山しませんか?」と、尋ねると「そんなところにはいかん!」「学会も可哀想ですね?」というと「ある意味では、可哀想かもしれん。」と判ってるのか?と思ったら「日顕(猊下)が悪い」と振り出しに戻った感じでした。話は平行線のまま。しまいには、大御本尊様の居られる奉安堂を体育館という始末。時間も経っていましたので、帰ってもらいました。 やはり、相手にしないほうが良かったのか?と思いましたが、折伏の経験をまた一つ積むことが出来ました。少しずつですが、自分でも実になっていると感じます。笠原御住職様のご指導の言葉で、「うちのお寺の室井さんて人は、折伏成就の数は凄いよ。だけど、失敗も人並み以上だと思うなぁ。」なにが言いたいかと言うと、何事も経験で失敗を恐れてはダメだよ。少しずつだけど前進しないと御本尊様に申し訳ないでしょ、という御言葉を胸に、これからも立ち止まらずに一歩一歩前進していこうと思いました。

以上

(斉藤さん)
夏期講習会に参加しよう!
 総本山で夏期講習会(全10回)が行われています。

 御法主日顕上人猊下は夏期講習会について、
「一泊の登山をなすべきときは、一泊をして、そして総本山の霊域において、尊い大御本尊様おわします功徳を身をもって受けるということが、非常に信心の上からも行の上からも大事なんだとお考えいただきたいのです」(大百法437号)

 夏期講習会の当日は、総本山に午前中に着山をし、午後1時からの御開扉を受け、午後3時から5時半まで講義を受けます。勤行、食事、唱題行をして、夜9時半には就寝。深夜1時頃起床して、丑寅勤行に参加します。4時頃もう一度就寝して5時45分に起床。勤行、食事、山内清掃を行い、9時から御法主上人猊下より御講議を賜ります。そして、11時から11時半には、下山になり、東京には、3時頃戻る予定になっています。

 一泊とはいえ、総本山大石寺での滞在時間はわずか24時間です。この短い時間の中で、精一杯取り組み、中身の濃い修業をさせて頂きましょう。

 各期お申し込みは地区長を通じ、登山部までお早めによろしくお願い致します。

(登山部)
編集後記
 お寺の玄関を入って左側の掲示板に、四月頃からだったか、緑色の紙で「日蓮正宗護持弘宣資金」という名の御供養についてのお知らせが張り出されている。

 総本山に直接御供養させていただけるとのこと。なんでも「恒常的に」というところが今回のポイントらしい。なるほど、かの南条時光さんも、常にいかなる時でも大聖人様のもとに真心の御供養を奉り、ついには日興上人に大石寺の土地を寄進され広宣流布の礎を築くという大きな役目を果たされたのだ。

 これをまねしない手はない!と早速一度参加した数日後、自分のこれまでの生活にいかに無駄が多かったか思い知らされる事となった。

 今、自ら「新生活スタート」と題し、五月中旬より、一日の生活費に上限を設定、必ずそれ以下に抑え、差額を手帳に記載し合計していくと、なんと二十日で四千円に!さらに外食をしないのでカロリーも自ずと抑えられウェストも微妙にスッキリ。ますます信心が楽しくなりそうな予感だ。次は時間の有効活用について真剣に考えよう。

 猊下様がこの御供養の功徳の大きい事を御指南されたものが、大日蓮五月号に掲載されているので、皆で読み合わせ、実践し、より大きく揺るぎない徳を積ませていただきましょう。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺