日蓮正宗佛乗寺 月刊向陽

平成17年7月号
御指導

平成十七年六月 御講拝読御書
『十八円満抄』(御書一五一九頁)

総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ 智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき 所詮 時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし

【現代語訳】

日蓮の弟子であるならば、日蓮と同じように正しい教えを根本にして修行に励むべきです。正しい教えによらない修行では、たとえ世間から智慧のある者とか、学問を成就したと讃えられる身になっても、地獄に堕ちます。せっかくの修行が台なしになります。そのようにならないためには、いついかなる時にも、心の奥底から「南無妙法蓮華経」と法華経の題目を唱え、精進をすることが大切です。  

【語句の意味】

正理=正しい教え

智者=智慧のある者。智慧のすぐれた人

学匠=学門を究め、教えを説く立場に立った者のこと

時々念々=時々は時間的側面。念々は精神的側面。ゆえに、いかなる時にも、心の奥底から、「南無妙法蓮華経」と唱えること

○この御書を頂いた【最蓮房】は佐渡ヶ島で入信。

当抄は弘安三年十一月三日、日蓮大聖人様が五十九歳の御時に身延山で認められ、お弟子の最蓮房に与えられたものです。
  最蓮房は京都の出身で天台宗の僧侶でした。どのような理由であったかは不明ですが佐渡に流罪になりました。そこで大聖人様より折伏を受けて弟子になりました。入信の時の模様を、『最蓮房御返事』で、

@「何となくとも貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月八日夜半寅の時に妙法の本円戒を以て受職灌頂(じゅしょくかんじょう)せしめ奉る者なり」(『最蓮房御返事』・御書五八七頁)

と述べられております。「妙法の本円戒」とは法華経本門の戒のことです。「授職潅頂」は、仏弟子として修行に励んだ菩薩が、修行の結果仏から秘法を伝授され阿闍梨となるときに受ける儀式で、阿闍梨は弟子をとり教えを説くことのできる資格を得た僧侶をいいます。その時、仏が阿闍梨となる弟子に、智慧の水をそそぎかけることから、このようにいわれます。ここでは、最蓮房が大聖人様から御授戒(ごじゅかい)を受けたことを、古来からの仏法の例にならってこのように仰せられたと拝します。

○《御授戒の儀式》

  私たちの入信の儀式として御授戒があります。その時に頭にお乗せするのは御本尊様です。御本尊様を頭に乗せて頂くことで、大聖人様の御法門の一切を注ぎ込んで頂いたことを表すのです。日蓮大聖人様が示して下さる、永遠に壊れることのない戒を持ち、仏の弟子として今世を生き、心豊かな人生を、と決意する儀式が御授戒です。ここでは、ア、御授戒を大聖人様がされていたこと、イ、御授戒には大切な意義があること。この二点を特に心にとどめておかなくてはなりません。

  この御文から、最蓮房は二ヶ月前から大聖人に折伏を受けていたことがわかります。そして四月八日の夜半、現在の時間で言えば、午前三時から五時にかけて御授戒を受けました。四月八日は釈尊の生まれた日ですから、その日の寅の刻を選んだのでしょう。

  最蓮房は、『生死一大事血脈抄』・『草木成仏口決』・『諸法実相抄』・『当体義抄』・『立正観抄』などの御法門の上で大切な御書をたくさん頂いております。それだけに学問にも秀でたものがあったのです。その最蓮房に対して、仏法を学ぶ上での大切な心構えとして、根本を誤ってはならないと御指南下さったものです。

○《正理を第一とすること》 

  大聖人は最蓮房を通して私たちに、「智者学匠の身となっても地獄に堕ちてしまったのではなんにもならない」と指導されます。何故智者になってはいけないのでしょうか。智者とは字のごとく、物事をよく知る者、智慧のある者のことです。また、学匠は学問を修め師匠の立場に立つ者のことです。修学に励み、人々に法を説く身となり、周囲から誉められるようになりたい、と思ってはいけないのでしょうか。

  大聖人がこのように仰せになられるのは、慢心を戒める上からのお言葉である、ということです。周囲から、あの人は偉い、よくやっている、などと誉められたりすると、それまで気にならなかったことが気になり出したり、張り合う気持ちが強くなります。せっかくコツコツと進んできたのに、チョット誉められるといい気になってしまい、思わぬ方向に行くのが私たち凡夫の姿です。 

  皆さんにも多かれ少なかれこのような経験があることでしょう。そこで大聖人様は、誉められるようなことがあっても、うぬぼれたりしてはなりませんぞ、誉められたりおだてられたりすることは、慢心に通じ、やがて私は尊いのである、という思いに支配され、地獄の苦しみに堕ちてしまうことになる。そうであったなら成仏どころか、地獄に堕ちることになる、と注意をして下さるのです。

○《誉められ方》

  では、せっかく一所懸命に努力をしても、だれからも誉められないのはつまらない、と思うのもまた凡夫の心です。当然です。人は誉めて育てろ、というような言葉もあります。そこで大聖人様の御指南を拝してみますと、

「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(『開目抄』 御書五七七頁)

という有名なお言葉があります。このお言葉は『開目抄』の中で仰せです。はじめて聞いた方、御書を実際に開いて拝して下さい。

  さて、その意味ですが、「愚かな者に誉められることは恥ずべきことである」ということです。大聖人は誉められて悦ぶべきである、とは仰せになりません。誉めた相手をよく見なければならない、相手が賢者であれば素直に喜ぶべきである、しかし愚かしい者から誉められたなら恥じ入るべきである、といわれるのです。

  では、この賢者と愚者・愚人の違いはどこにあるのでしょうか。両者を私たちの信仰の上から考えるならば、愚人は「謗法の者」。賢者は「正法の者」。明らかです。善い悪いの判断基準は全てここからです。繰り返しますが、富士大石寺の大御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱える者は賢者・賢人であり、富士大石寺の大御本尊様を謗り、信じない者は愚者・愚人です。したがって、愚人から誉められることはきちんとした折伏ができていない証拠ともいえます。自戒しなくてはなりません。

  ですから、「我が如く正理を修行し給へ」とのお言葉を軽々しく拝してはなりません。修学の根本を本門戒壇の大御本尊様に置くことが成仏の絶対条件です。その修行において【智者・学匠】となり、誉められることは素晴らしいことであり、自信と誇りを持つべきことです。最高の賢者であられる日蓮大聖人様にお誉めいただくことが私たちの信仰の目的だからです。お誉めいただけるように精進することが成仏の上からは重要なのです。

○《正理を修行する方法》 

  それでは、正理を修行する方法とはどのようなものでしょうか。最蓮房は大聖人様より直々に御指南を賜り正理を修行することができました。大聖人滅後の現在の私たちは、御書を拝することによって大聖人様から御指南を賜ることができます。「御抄を心肝に染め極理を師伝して」と日興上人が御指南です。心肝とは心の奥深く、心底、という意味です。極理を師伝することは、御書の中に示される究極の理論は師匠から伝えられものである、とのお言葉です。ですから、時の御法主上人の御指南を拝して御書に向かう姿勢が、大聖人様の仰せになる師弟相対の信心なのです。

○《師弟の因縁》

A「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか。我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか」(『最蓮房御返事』 御書五八五頁)

とあります。これは、師弟の関係をわかりやすく説明して下さるものです。現代語に訳しますと、「私たちは遠い過去から師匠と弟子との関係だったのです。私は師匠の立場として、あなたに南無妙法蓮華経を教え、あなたは弟子の立場からこの末法という濁った世の中で、南閻浮提にある日本国に生を受け、もったいなくも、全ての仏の成仏の因である南無妙法蓮華経の題目を、口で唱え、心の奥底から信じ、手を合わせて修行に励んでおります。このように師弟となって南無妙法蓮華経と信仰に励むことは過去世からの深い深い縁でしょうか」となります。

  ところで、信仰の契約といえば、思い出すのがキリスト教で説く神との契約です。彼らは、モーゼとイスラエルの民との契約を旧約といい、キリストを通して全人類と結んだ契約を新約と名付けております。キリスト教徒を折伏したときに、仏教が勝れているのは理解するが、この契約があるから改宗はできない、神との約束を破ることはできない、とかたくなに入信を拒否します。それほどに、無知な民衆を縛っているのです。しかし、キリスト教での契約は、あくまでも神が中心でありその上で人々に契約を結ばせたものです。自主性はありません。ですから、差別があろうが矛盾したものであろうが異議を申し立てることはできません。

  一方、大聖人様はこの師弟の契約について、『上野殿御返事』で、

B「爰に日蓮思ふやう、提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり」(『上野殿御返事』 御書一三六〇頁)

と述べられ、師弟の関係は過去からの契約であると仰せになりますが、その前提として、過去世では師匠であったが現世では弟子となり、来世にはまた反対になる、という経文に説かれた因縁を示して下さっております。したがって、大聖人様の仰せになる契約は、あくまでも師と弟子の両者が納得の上であり、キリスト教のように神からの一方的なものではない、との意味なのです。ゆえに、仏法で説く師弟の契約は、私たちが仏様に誓った随順の言葉である、といえます。

  このように、大聖人様が師弟の因縁を述べられ、日興上人が、大聖人への師弟相対の信仰が大切である、と教えて下さる意味を私たち法華講衆は深く拝さなくてはなりません。

  正しい師匠に付きしたがって行くならば、法華経の智者・学匠になることができるのです。それは成仏の道を歩むことです。反対に誤った師に付いたならば、智者といわれても、学匠といわれても地獄の生活になるのです。私たちの師匠は日蓮大聖人以外にはおられません。大聖人様から唯授一人の血脈を所持される御法主日顕上人が現在の師匠です。御法主上人の御指南を拝して御書を学ぶことが、正しい智者学匠になる唯一の道です。そして、

  「時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし」

との仰せを忘れることなく、常に唱題を重ねることが肝要です。

○《結び・戒を破り地獄に堕ちる学会員を救う修行》

  御授戒の時に誓ったことを忘れ、誤った師弟観に立ち、正理を学ぶことができなくなった例が池田大作創価学会です。金力にものをいわせて、世界中から勲章や名誉称号を集めて、それを誇っております。そのような池田大作の姿こそ、大聖人様が当抄で指摘される、「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」そのものです。彼の哀れな姿を見て、慈悲の心を持って折伏をしようではありませんか。彼らと同じようにならないためにも、我が身を省みつつ、成仏の信心に励みましょう。
梅雨の季節になりました。この時期の雨により大地が潤い、暑い夏にも水不足を回避できると思えば、雨もまた良しです。雨に濡れながらの参詣は、好天の参詣よりもなお功徳が多い、と教えるのが日蓮正宗です。益々のご精進をお祈りします。

C「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり」(『最蓮房御返事』 御書五八八頁)

大聖人と最蓮房の師弟の境界です。

同心唱題会拝読御書(その三十)

平成十七年六月五日

『千日尼御前御返事』(御書一二五一頁)

 内典の仏法に入りて五千七千余巻の小乗・大乗は、女人成仏かたければ悲母の恩報じがたし。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或は成仏、或は往生を許したるやうなれども仏の仮言にて実事なし。但法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へと見候ひしかば、悲母の恩を報ぜんために、此の経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す。

 日蓮大聖人が、「南無妙法蓮華経」と勧め、全ての女性を幸福な生活に導くことを願いとしてたてられる誠に有り難いお言葉ではありませんか。「南無妙法蓮華経」と富士大石寺に御安置の大御本尊様に向かえば、必ず「心の満足」を得られる、との御本仏の大確信をお示し下さるものです。

  現代語に訳しますと、「仏法には多くの経文が説かれているが、いずれの経文にも女性の成仏は難しいものであると説かれている。だから恩のある母親の成仏を願ってそれらの経文を修行したところで母を仏に導くことは出来ないのである。小乗の教えでは、女性の成仏は少しも説かれていない。大乗の教えには、あるいは成仏、あるいは往生という言葉はあるけれども、それは仏の仮の言葉であり、それらの教えで実際に成仏をした者はいない。ところが、この法華経だけは女性の成仏が説かれている。ただ言葉だけではなく実際に仏に成ったことが示されている。だから、母の恩に報ゆることができる。親孝行を実践する教えであると確信するから、母の恩に報ゆるために題目を唱えることを全ての女性に勧めるのである」となります。

  「女性の成仏」は日蓮の願いである、との仰せは、私たちにとって誠に有り難いお言葉です。何故ならば、私たちは一人の例外もなく母親から生まれました。その母親に対する恩の大切さを知りながら、誤った方法で恩を報じる姿ばかりだからです。亡き母のことを思い、懸命に念仏を唱え母が阿弥陀仏の国に生まれることを願っても、叶えられません。それは、阿弥陀経には女性の成仏が説かれていないからです。反対に、法華経を誹謗する教えですから、成仏ではなく堕獄の因を積むことになります。したがって、せっかくの恩を報ずる気持ちが怨となり母親を苦しめる結果となります。

  存生の母親には、プレゼントをしたり優しい言葉をかけることで一応の孝養はできます。ただし、それは現世に限定された孝養ですから真実の孝養とは言えません。そこで当抄のように、

「悲母の恩を報ぜんために、此の経の題目を一切の女人に唱へさせんと願す」

と仰せになるのです。

 この御文を認められたときには、大聖人の母上は他界されております。したがって亡き母に直接の孝養を果たすことはもはや叶わないが、そのかわりに生きている女性たちに、生きて会うことの出来る女性に「南無妙法蓮華経」と唱えることを勧めるならば、その修行が母に対する孝養になる、という意味も込められます。

  この御指南から、私たちが行う折伏の修行が、恩ある母親に心から感謝をし、親孝行を実践するものであることがわかります。

  この大聖人の御指南を心にとどめ、「唱題」をかさね、「題目を唱えさせんと願う」修行に励み、真実の孝養を実践しましょう。

モンゴルより夏期講習会へ

■感想(十七年六月二十六日)

(質問)ご登山はいかがでしたか。

(答え)すごいたくさん勉強した。大変だったけどとても良かった。

(質問)どんなところが良かったですか。

(答え)五千人の心が一つになることが出来るなんて考えられなかった。でも実際には五千人が心を一つにしている。一番驚き、また素晴らしいと思った。丑寅勤行にも感激した。毎日、七五○年もの間続けていることがすごい。参詣できて本当に良かった。

唱題行に参加して思ったこと(これは質問をしないのにかえってきた言葉です)

  最初、一時間も南無妙法蓮華経と唱えるのは難しいと思った。どのようにして時間を過ごそうかと困った。でも、南無妙法蓮華経とお題目を唱え始めると、最初に一番大事な妹たちのことが浮かんできた。(父親を早く亡くしているので、二人の妹が一番大事)その妹たちが幸せになれるように、仕事や勉強や人生のことを祈った。次は子供たち、その次は主人、主人の両親、みんな顔を思い浮かべ、病気をしないように、幸せになれるように、祈りました。モンゴルの小さいときからの友人、日本に来てからの友人も一人ひとり思い出した。その人たちが幸せになるように、名前と顔を思い浮かべてお題目を唱えました。モンゴルは今経済的に大変なので、国が豊かになるように祈りました。小さい子供たちがマンホールで生活をしています。その子たちがちゃんとして暮らせるように祈りました。日本は地震や台風が多いのでそのようなものが起こらないように祈りました。世界中が平和になるように祈りました。最後に、私のことを祈りました。仕事や健康のことです。

【以上のような感想がありました。また是非来たいとも言っておりました。】

【ご住職より】

 Aさんは、昨年の出張御授戒の時、一連の流れの中で通訳をして下さった方です。通訳をするうちに、日蓮大聖人の教えの素晴らしさに触れて御授戒を受け、御本尊様を御安置しました。

  今回、仕事上の研修を受けることになり、九州に来ました。そこで、総本山への参詣が叶ったのです。

大聖人は、南条時光に、

「急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし」(『南条殿御返事』 御書一五六九頁)

と御指南されます。文の意は、

「ここで日蓮があなたをお待ちしております。日蓮のところに足を運ぶことは、過去世からの罪障を消滅して未来の成仏を果たす修行です。急いで日蓮のところに参詣をしなさい」というものです。

  参詣をした方はもちろんですが、今回のご登山に、多くの方が協力をして下さいました。その方々にも罪障消滅のご利益があることは論を待ちません。私たちの信心の目的は、大聖人様への道案内をすることです。大聖人様からお誉め頂くことが出来る信心修行はこれをおいて外にはありません。共々に励みましょう。

広布推進会から

〜拝聴メモ〜

◎体験発表‐宝浄寺支部 Aさん、Bさん

Bさんは二年間の創価学会会員でした。法華講員のAさんに折伏され入信しました。その体験です。

★創価学会にいるときには、歩む道が間違っていないことを願う自分がいた。不審を持ちながらの活動でした。

★衛星中継は、半分が日蓮正宗批判、半分が池田自身が語る池田の自画自賛でした。

★創価学会が違うと思った根據

@折伏がノルマ
A平和・平和と言いながら、違う考えの人たちのことを罵倒する矛盾
B守り本尊を五千円で配布。それを大量に買い込み無料で友人知人に配り借金で首の回らなくなった先輩会員の姿。大切なはずのものを無料で配ることへの不安。

【法華講から折伏を受けて】

☆引き込まれるように御本尊様の前に座ることができた。(宝浄寺にて 十七年二月十二日入信)
☆入信後 変わる自分に気づく
☆信じるものを疑うことのない幸福が日蓮正宗にはある
☆迷路のような心を正しいものに導く信心が日蓮正宗

唱題行の実践と工夫

 五月八日、Kさんという一人の創価学会婦人部の方を日蓮正宗へと善導し、勧誡を成就することにより、この法界からたった一体のニセ本尊を抹消することができました。

  正直申し上げて、今回の折伏は、唱題行の副産物と言った感想を持ちました。副産物とは、目的とする製品の製造過程で、ついでに生産されてしまう別の品物を言いますゆえ、折伏という仏道修行の成果を副産物呼ばわりするとは、たいそうな暴言かも知れませんが、今回は敢えて、そのように言いたくなるくらいすんなりと決意して頂けましたと、同じ仏道修行に励む講中の皆様にお伝え致します。

  もちろん、折伏相手には、折伏としてのしかるべき行動は起こしました。何度となく客としてお店に足を運び(彼女の家は家庭料理を作る食堂を経営しています)、学会の過ち、ニセ本尊の恐ろしさを誠意をもってお話ししました。また同時に、私が学会活動を一所懸命にやっていた昭和五十八年当時の、面識のある学会員数名に行動を起こしました。Kさんはそのうちの一人でした。

  行動を起こすことの重要性、すなわちいくら祈ってばかりいても、行動を起こさずに成就する願いはないということを、今回の折伏を通して、あらためて勉強させていただきました。

 が、顧みれば、さしたる世法的な努力もせずに、侃々諤々の法論になることもなく、たまたま柔和質直な人を折伏させていただいたように思います。

  そのようなわけですので、今回の折伏に至った、私がこの半年間にしてきた唱題行の工夫と、私が自分自身に言い聞かせてきたことを、講中の皆様方に、少しでも役立てば幸いに思い、箇条書きにまとめました。

  まず第一に、必ず唱題の目標を定めることです。目標を定めて必ず記録をすることです。
私はエクセルに記録しておりますが、正確に記録することで、いかにやったつもりでも実際にはあまり出来ていないかということが、見えてきます。

 そのようなところから反省が生まれ、明日への工夫へとつなげていくことが出来ます。

 私は去年の十一月二十二日より本格的に記録を始め、四月に百万遍を達成したところでした。拘束時間の長い仕事を持つ身で、実際にそれを行じることにより、またその過程において、如何に百万遍という数字が、巷間で語られる皮算用ほど易くない、莫大な数字であるかと言うことを、身をもって思い知らされました。

  天文十七(一五四八)年は、室町幕府の時代で、徳川家康がまだ五歳の幼少であり、大石寺は第十三世日院上人猊下の時代であられ、コペルニクスが地動説を発表した年でもあります。この年の十月一日の朝、「さあやるぞ」と百万遍の唱題行を決意し、毎日、朝晩のお題目三唱を一度も欠かさずに実行すると、四五七年後の平成十七(二〇〇五)年の四月二十八日の晩で百万遍に達成します。

  つまり第二に、塵は積もっても山とならないということを知って頂きたいのです。一円玉貯金を実行してみますと、一円玉というお金のはかなさを思い知らされます。ある程度の金額にするためには、百円玉、できれば五百円玉の貯金をしなければならないという結論に、いやがおうにも行き着くことになります。

  塵を積もらせて山にするためには、実に地質学的スケールの歳月が必要であり、一方で人生は有限であり、それに比べれば、ほんの一瞬です。

 「人生七十を希なりとして、身のさかりなるところ二十余年」とは、松尾芭蕉の言葉ですが、現代では平均寿命が少しくらい延びたとはいえ、赤ん坊の頃の時間、老いて体が思うように動かなくなってからの時間、さらに、仕事に拘束されている莫大な時間、そして寝ている時間、掃除、洗濯、食事、トイレなどを差し引くと、本当に充実してやりたいことが出来る時間というのは、一生を通しても本当に僅かしかないことがわかります。

 実に人生は全く無常であります。しかし、そのはかなく無常な今世、今日が大切なのであります。自らの一念で、自らの発心に於いて、過去、現在、未来の三世を救い得るのは、まさに今しかないのです。

  その僅かしかない限られた自由時間に、ゴルフもやりたい、スキーも行きたい、社交ダンスも上手になりたいし、気の合う仲間と温泉に行きたい、週末に家族旅行をして、小学生の息子とアウトドアを楽しみたい。

 これらの遊びを否定する気は毛頭ありませんが、百万遍という目標を持ったなら、せめて目標が成就するまでの間は、そうしたやりたいことをする時間を犠牲にして、唱題行に割り当てていかなければ、とてもではありませんが、いつまでたっても先が見えて来ません。

  第三に、そうした猛ダッシュ型の信心を生涯続けていけるかどうかですが、私としての答えは「ノー」です。マラソン選手でも、フルマラソンの全行程を猛ダッシュで走り抜けることは不可能でしょう。一生涯このぺースで信心することは、今の私には考えられません。しかし、人生ここ一番と思う時ぐらいは、それくらい頑張ることができてしかるべきだと思うのです。

  つまり、百万遍等の、目標の直接的な動機は、広宣流布のような仏法的大儀の通った通念上の素晴らしく立派な動機ではなく、凡夫の儚い煩悩苦にあると、私は言いたいのです。

  煩悩苦とは多くの場合、癌などの業病による病苦であったり、経済苦であったり、人間関係、職場や家庭の危機、これらが複合的に作用した八方塞がりの状態であったり、あるいは就職や結婚、同じ病苦でも、お医者様でも草津の湯でも治らないとされる恋の病なども、煩悩苦の代表格と言っていいでしょう。そして、これら人口に膾炙された横綱級の煩悩がある一方で、他人が聞けば「なあんだそれしきりのこと」と思うような些細なことで意外と真剣に悩んでいるのもまた凡夫の姿です。いずれにせよ私たち末法の凡夫は、煩悩が服を着て歩いているような動物と言っても差し支えないでしょう。そんな中で、百万遍もの唱題の目標を定める動機付けとなった、ひときわ強烈な煩悩を持ったことを、御本尊様に感謝すべきだと思うのです。

  第四に、煩悩が報われずとも、挫けずに、逆境で唱題しろと、私は言いたいのです。

  どうかお願いしますと、願ってあげるお題目。日々平穏に暮らせることに感謝してあげるお題目。願い事が叶わなかった時に、それでもあげる逆境のお題目。いちばん信が強いお題目は最後にあげた逆境のお題目だと思うからです。

  つまりは諸難、逆境こそ過去の一切の謗法を消滅してくれる善知識と知れと、言いたいのであります。

  ただし、その願い事が、真剣な願い事であればあったほど、結果が裏目に出た時のお題目は、めちゃめちゃ苦しいと思いますよ。周囲の人に「苦しさのあまり、お題目の音程を乱してしまっては、心を落ち着かせるところの禅定波羅蜜になりませんよ」と、注意されるかも知れません。

 しかしどれほど苦しくとも、それを試練とこころえ、自分の定めた目標を、石にしがみついてでも成就しろと私はいいたいのです。叶わないのなら、目標を倍の二百万遍に上方修正するくらいの気概があってしかるべきだと、申し上げたいのです。 佐渡御書には

「譬ば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず、年々にのべゆく、其所を出る時に競い起こるが如し」

とあります。

  言うまでもなく、私たち末法の衆生は、程度の差こそあれ、全員が、謗法と言う過去世の負債を背負って生まれて来ているわけです。

  しかし謗法の債務も、魔王の所領にある時は取り立ても比較的穏やかであり、分割払いでありますとか、あるいは少しくらい支払いが滞っても繰り越しの来世払い等で、後延ばしにすることも可能でしょうが、いざ魔王の所領を出て、謗法の生活から足を洗い、仏国土へ移住しようとすれば、取り立ては厳しくなり、延滞金を含めて一度に全額の返済を迫られるのは理の当然でありましょう。

  願い事が叶わないというのは、過去世の謗法罪障の、全額返済の請求書を利息付きで突き付けられている状態であり、罪障の精算が済むまでは、寂光土への旅立ちを聴そうとはしない魔軍の攻撃であるとも言えます。そこで叶わなかったからと言って気落ちして、信心から遠のいてしまったのでは「まことの時はわするゝなるべし」になってしまいます。

  第五に、不幸や苦しみの根源をたたき切るものはただひとつ、正しい御本尊様と、正しいお題目以外にはないと知れ。謗法の重業は、妙法の大良薬を用いる以外に救護の道はないと知れ。右往左往するな、動揺するな、この道しか真の解決はないのだと心に決めて信心に徹しきれと、強く訴えたいのであります。

  第六に、人生ここ一番と、目標を定めたときぐらい、脆弱で、わがままで、怠惰な自分に勝てと、己心の魔に勝てと言いたいのであります。

  第七に、自らの先謗の強き深きを知れ。大苦大難は仏道修行の一部分であると心得、それに怯むなと、申し上げたいのであります。

  そして第八に、勇猛心を奮い起こして、第六天の魔王を、妙法守護の善神にかえてみせよと、言いたいのであります。

  これらすべてを、本当は、偉そうに講中の皆様に訴えたいわけではなく、ただただ、私自身、自分自身に、声を大にして言い聞かせたいのです。ことほど左様に私は、三度の食事より遊ぶことが大好きな怠け者なのです。

  つまりは第九に、自分のかわりに修行してくれる人などいない、代理の仏道修行などないのですから、自分の罪障は自分で消滅させるしかなく、こと仏道修行に於いては、人には優しくても誰よりも自分に厳しくなれと、まさに自分自身に、強く言い聞かせたいのであります。

  最後に、今回折伏・勧誡させて頂いたKさんには、早い時期に、いい結果を出していただき、さらなる発心、精進が出来るよう、爪上の土になっていただけるよう、仏乗寺にとって大切な人材になっていただけるよう、そして誰よりも幸せになっていただけるよう、心からそう願っております。

(くろさわさん)

佛乗寺婦人部からのお知らせ

 8月28日(日)大願寺に於いて、第7回婦人部大会が開催されます。体験発表や御尊師のご指導には、日々の生活を改善するために役立つヒントがたくさんあります。参加しないと聞けません。今から8月28日はしっかりあけておいて下さいね!

☆大会スローガン☆
@ 慈悲と勇気と確信で 目指そう誓願の完遂を!
A 燃える唱題と実戦で 果たそう御命題の達成を!

吾れを知る僧をはします目の澄みて語れる言葉直(すな)に聞きゐる (Iさん)

編集後記

 新本堂落慶法要の砌には、御法主上人猊下が佛乗寺に御下向くださる。

  その当日、皆で、新築なった正面玄関、あるいは道路に整列し、合掌しつつお待ち申しあげる心境はいかなるものであろうか。

 残り一年間。願わくば、当日直接の御言葉を待つ前に、ご到着なされるそのお姿を合掌をもって拝した瞬間に、御法主上人猊下のお褒めの御言葉を、一人ひとりがその心にはっきりと感じたい。

 それを目標に、佛乗寺信徒として誇れる信行を常に心がけ、この一年を精進しよう。


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日蓮正宗向陽山佛乗寺