平成17年8月号
御指導
如説修行抄
 
 法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵 来たらん事は疑ひなし (六七三頁)


【現代語訳】
法華経がただ一つの成仏の教えである、と声に出して休みなく言い続け、諸宗の者たちや信じている教えを折伏してみなさい。そうすると俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢の三種類の手強い敵が必ず現れます。


【語句の意味】

「音を惜しまず」
法華経の宝塔品に「大音声を以て、普く四衆に告げたまわく」とあります。この経文からの引用です。大きな声ですべての人々に法華経を説くべきである、という意。「音も惜しまず」とは継続した折伏、また折伏に我が身を惜しんではならない、と拝すべきです。

「諸宗の人法」
諸々の宗派の開祖とその教えのこと。淨土宗であれば、人は法然。法は「選擇本願念仏集」などで説かれる捨閉閣抛の邪義。真言宗であれば、人は弘法。法は法華経は戲論などとたて大日如来を中心とする邪義。創価学会であれば、人は池田大作。法は、池田大作が日蓮正宗の御本尊様をまねて作った「ニセ本尊」。



一、如説修行抄ご述作の背景

 当抄は、文永十(一二七三)年五月、日蓮大聖人様が佐渡一谷(いちのさわ)において認(したた)められ門下一同に与えられた御文です。題号の『如説修行抄』は内容から後の人が付したものです。また「隨身不離抄(ずいしんふりしょう)」とも呼ばれています。


【題号に込められた意義】

 『如説修行抄』の「如説」は、説かれたそのままに、説かれたように、の意です。また、「修行」の「修」には、性質や品行のかどだった点を取りさり、すらりとしたひとがらにする・欠けた点を補い繕ってすらりとした形にまとめる(漢字源)、という意味があります。「行」には、動いて事をする。動かす。やらせる(同)等の意味があります。つまり修行は、性質や品行に欠けたところがなく、まっすぐで円満な人格を形成することを目標として行動をする、ということです。

 如説修行について、日寛上人は文段で、
「日本国の諸人、誰か経文の如く行ずるや。日蓮は経文の如く修行する故に如説修行の人なり」
と述べられています。したがって「如説修行」は、大聖人様のお立場から拝すれば、法華経に説かれるように、となります。しかし、これは末法の御本仏であられる大聖人様が、仏法の筋道の上から述べられる謙譲のお言葉として拝することが大切です。私たち日蓮大聖人様の弟子檀那の一分に連なる立場からは、日蓮大聖人様が説かれたように、大聖人様が教えて下さるように実践することが如説修行であり、なによりも重要なことです。

 大聖人様の説かれた如く、ですから、御一代の御書すべてがあてはまるのは当然ですが、ことに、当抄の前年の二月に顕され、末法の御本仏が日蓮大聖人様であることを明かされた『開目抄』と、当抄執筆の直前の四月に、末法に御出現される御本尊様のことを御指南された『観心本尊抄』に引き続いて当抄が門下に与えられたことを思うと、『開目抄』・「本尊抄」が大聖人様の最も大切な「説」であり、両抄を心に刻んで「如説修行」をすることが、私たち富士大石寺の法華講衆の信心修行です。

 幕府は日蓮大聖人様を佐渡に配流するばかりか、弟子をとらえて土牢に入れたり、信徒にも迫害を加えたりしておりました。門下の動揺も少なからず、中には残念ながら退転するものも出ておりました。不安な気持ちで日々を過ごす門下に、日蓮の教えのままに修行に励むならば、円満で欠けることのない人格を形成することが叶う、と教えて下さり、退転することなく一生成仏の信仰を貫くことをご教示になります。

 私たちも生きている間には多くの苦難が押し寄せてまいります。そのような時には、御在世の人々が当抄を心で拝し、信心を励まして苦難を脱したように、私たちも大聖人様の仰せのままに精進をすることにより、ピンチをチャンスに変えゆくことができます。

 ともあれ、当抄は大聖人様が、私たち末弟のことを心に懸けて遺して下さった御文ですから、心して拝読しようではありませんか。


二、如説修行抄のあらすじ

 はじめに、末法で正しい教えを信じ行ずることが難しい理由を述べられ、そのような中で、法華経の行者である日蓮大聖人様の弟子檀那となるのであるから、三種類の手強い敵が現れて妨害をすることは明らかである、と御指南されます。また、このこととは日頃から教えていたことではあるが、いざその時になってみると凡夫は忘れてしまい退転する、と指摘され、末法で正しい信仰を貫くことがいかに難しいことであるかを教えて下さいます。

 ついで、正しい修行をしている者は現世においては安穏であるはずなのに、どうして三類の強敵が襲ってるのか、との問いを設け、その理由と現世の安穏についてご教示です。

 つぎに、諸宗の誤りを指摘され真実の如説修行のあり方を示される中で、大聖人ご自身のお振る舞いを通して御指南を下さり、真実の教えが国中に広まったときの功徳の現証を
「天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」
と書き記されています。

 続いて、修行には「摂受」と「折伏」の両面があり、このことを知ることが大切であり、末法では折伏が成仏のための修行であり、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しになります。

 最後に、日蓮大聖人並びに弟子檀那が末法の如説修行の者であると仰せになり、どのようなことがあっても退転することなく南無妙法蓮華経とお題目を唱えながら臨終を迎えたならば諸仏(大聖人様)が迎えにきて下さることを述べられて当抄を結ばれます。


三、拝読した御文について

 本日拝読の御文は、摂受と折伏の違いを述べられた後に、末法には折伏が第一でありその折伏には大きな難が起こることを示されたところです。

 摂受とは、相手に誤りがあってもそのことを直ちに指摘をすることなく、受け入れながら導く方法です。もう一つの折伏は、相手の誤りをただちに指摘して誤った心を折り、正しい教えに伏させることをいいます。

 大聖人様は、
「法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もつけ)にあらずや」
と仰せになります。意は、法華経を信じないものを折伏しないで、人里離れた山の中に篭もり摂受の修行をする者は、不幸な者である、ということです。

 この御指南は、末法の私たちが幸福になるためには、どのような信心をすればよいかを考える上で非常に大切な御指南です。つまり、唱題をいていても、私には折伏をする力がない、と思いこんでいるのは「山の中で一人お題目を唱えている」状況であり、それでは成仏の功徳を得られません。その状態を物怪というのです。物怪とは、怪しいこと・不幸なことをいいます。良薬があるにもかかわらず飲むことができないのは不幸なことです。薬がないのも不幸ですが、飲もうとしないのはもっと不幸ではありませんか。

 その不幸の生活から抜け出すために如説修行の信心をするのです。薬を飲もうとしないから、いつまでたっても生活が改善されないのは当然です。ただし、そのためには覚悟が必要です。覚悟とは、どのようなことがあっても大聖人様の仰せのままに修行に励むことです。その覚悟を試すものが「三類の強敵」です。三類の強敵は法華経の勧持品第十三に説かれます。末法に法華経を弘める者のところに押し寄せてくる三種類の妨害者のことです。

一、俗衆増上慢(ぞくしゆうぞうじようまん)は、法華経の正しい信仰する者に向かって、悪口をいったり暴力を加えたり  する仏法に無知な信仰者のことをいいます。

二、道門増上慢(どうもん)は、邪悪な心を持ち法のためよりも自己を大切に正法の信仰を妨げる出家者のことです。

三、僣聖増上慢(せんしよう)は、多くの人々から尊敬され、表面上は尊い姿をしているが、内面には正法を憎む心を持ち、権力を利用して正法を信仰する者に対して危害を加える者のことです。

 この三種類の手強い敵が大聖人様の仰せの通りに折伏の修行に励む私たち法華講衆に対して、ある時は在家の姿で忍び寄り、ある時は権力にその身を変えて襲ってくるのです。


四、如説修行とは折伏なり
 
 そこで、三類の強敵によって信心の浅深を知ることができます。日蓮大聖人様の弟子檀那である資格は、三類の強敵が現れるかそうでないかで決まるといっても過言ではありません。三類の中の一つでも現れたならば、それは日蓮大聖人様の弟子檀那の資格を得たことですから、喜ぶべきことです。これが折伏の基準になります。とはいっても、難を受けるのは辛いものです。そのようなときに次の御文を思い浮かべようではありませんか。

縦ひ頚をばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び来たりて手を取りてかたに引き懸けて霊山へはしり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうごの諸天善神は、天蓋を指し幡を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや

 すなわち、たとえ首を鋸(のこぎり)で切りとられても、胴体を鋭い鉾(ほこ)で突かれても、また足には太い釘を打たれてさらに錐(きり)で穴を開けられるようなことがあっても、意識のある間は南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と題目を唱へ続けなさい。そうするならば、必ず御本尊様がお護り下さり、御本尊様のお住まいのところに送り届けてくださる、との御指南です。平成の世に、折伏をしたから、といって首を鋸で切られることはないでしょう。それだけ恵まれた時代に信心ができるのですから有り難いと思う素直な心が大切です。

 そのうえで、この御指南を心から拝して、安易な信仰に流されることのないように、我が身の信心を反省するならば、自己中心になっている狭い料簡の生活を改革し、仏様のお使いとして何かお役に立つことができる、という信心に立てます。成仏はその先に必ず見えております。そのことを当抄を拝して確信することができます。決まった法則の下で、このようにすれば良い結果が生まれる、とわかっている信心は日蓮正宗の信心だけです。これもすべて大御本尊様の偉大なお力です。ですからそんなに難しいことではありません。ただし覚悟はもたねばなりません。決意は必要です。

 申すまでもありませんが、いま仏乗寺法華講員には過去世からの罪障を消滅して一歩成長する好機にめぐり逢っております。明年に予定された菩提寺である仏乗寺の新築落慶入仏法要において、総本山より御下向下さる御法主日顕上人猊下の大導師のもと、共に読経唱題をさせて頂き、我が身の罪障消滅を願う機会は一生に一度、いや三世に一度かも知れません。この時に御本尊様のお使いをする覚悟をしなくていつしますか? この時に決意を新たにしなければ次の機会はないでしょう。いま覚悟をし、決意をすることにより成仏は約束されます。仏乗寺の檀信徒として、この機会をとらえて、一人ひとりが自信と誇りをもち、当日の法要を迎えようではありませんか。

 暑い季節を迎えますが、暑さに負けることなく唱題を重ね、この七月の御報恩御講を信心の節目として精進を重ねてまいりましょう。
第二回モンゴル出張ご授戒と家庭訪問経過報告
 平成十七年七月二日「土」私と家内は笠原御住職の第二回モンゴル出張御受戒と家庭訪問のため、ご指導を仰ぎながらモンゴルへ出発しました。そして翌七月三日(日)シンデイ宅で朝八時三十分勤行に続き九時より一時間広布唱題行を行いました。モンゴルと日本の時差はありません。日本と同時刻に行える不思議な因縁を感じました。その後参加者に去年のご授戒以後の信心の状況や体験を、聞いたところ全員がすばらしい功徳を頂いていることを話してくれました。

 特にサエナンさんという婦人の方はアクセサリーのビジネスも順調で収入も沢山増えたとのことでした。あまりにもご本尊様の功徳が大きく現れるのでベルギーに住んでる娘さんにもお題目を唱えるように伝えたそうです。このサエナンさんはワープロで打ったモンゴル語の経文がボロボロなので新しくコピーをしてはどうですかと尋ねると私はこれが一番すきです。初めて目にした仏様の経文なので大事にしています。との話で御住職様も感激され写真に納められたほどです。

 サエナンさんに限らず集まった全員が大きな功徳を頂いている話を聞くと疲れが一瞬に吹き飛び今回もモンゴルに来て良かったなあと、つくずく思いました。

 そして猊下様と一緒に唱える広布唱題行の意義について、話したところモンゴル中に日蓮正宗を広めますと力強い話が出て尚一層うれしくなりました。いよいよ佛乗寺笠原御住職様をお迎えするにあたって、朝の勤行の後無事到着を祈念して全員で一時間の唱題を行いその夜御住職様は無事到着されました。翌日御住職さまの御導師により朝の勤行をさせて頂き参加者も大変な感激で一杯でした。日本にいる私たちはお寺に行けば何時でも御住職様と勤行が出来ますがモンゴルではそうはいきません。全員の素直な喜びと信心は私たちも考えさせられる一面でもあります。そして車で一時間三十分ウランバートルから百五十キロメートル位の草原のゲルへ向かいました。ゲルにはシンデイのお母さんツエレンさんの弟や親戚、近隣の遊牧民が待っていました。弟さんの足がよくなったのを聞いて入信したいと願っていました。笠原御住職様は読経唱題の後三十一名に御授戒十三世帯に御本尊下付をされました。広い草原の小さなゲルの中でご授戒をされた御僧侶は、笠原御住職様が初めてではないかとおもいます。最後に弟さんから御住職さまへ馬が一頭、御供養されました。

 休むまもなく急いでホテルに戻られ先日総本山の夏期講習会に参加されたアデイセマさんの実家に向かわれ十三人のご授戒五世帯の御本尊下付をされました。夜11時三十分にホテルに戻られ早朝の五時から朝の勤行をして頂き八時の飛行機で御一緒に帰国いたしました。今回の出張御授戒もすばらしい感動の話があっていっぺんに書き表す事が出来ないのが残念です。前回と同様御住職様には大変な強行日程の出張御授戒をして頂いたことを深く感謝しております。モンゴルでの感動を支部全体で分ち合い御住職様のご指導である素直な信心を本家である日本の私たちがモンゴルの人達に負けない、手本となる信心を心掛け、佛乗寺法華講は講頭を中心に御住職様のご指導を根本とし折伏に邁進していきましょう。

(室井さん)
「広布推進会」 体験

十七年七月二十日 於 広説寺
妙声寺 Kさん
○第二次創価学会問題がおこったときに、会合に出席して、創価学会は信仰より組織の理論が優先されることに気づき脱会を決意。
○ご主人は山梨県の副青年部長をしており、奥さんの脱会後は家庭内離婚の状況に。
○ご主人云く、信心の訓練は学会でなければできない、法華講ではできない、だから絶対に脱会はしない、と。
○ある日ご主人は妙声寺の住職の悪口を会合で聞き、事実と違うことに気づきそれ以降は会合には出席をしなくなった。が、聖教新聞の購読や公明党の支援はやめない。
○ご夫婦で、妙声寺住職の病気見舞いに参詣したときに折伏されて勧戒を受けることができた。
○直後に11年ぶりに夫婦揃って御開扉を受けることができた。その時にご主人は、大御本尊様、どちらが正しいのか教えて下さい、とご祈念をしたそうである。
○子供たちは、創価学会の時には信仰を嫌がっていたが、法華講になってからは素直にお寺に参詣をするようになった。そして、そのたびに変わる子供たちの姿を見てご主人も考えをあらためる。云く、法華講では信心の訓練ができないと思っていたが、創価学会は信仰ではなかった、そういって聖教新聞の購読を中止。学会では本当の信心を教わっていなかったことに気づいた。大聖人の信心ではなかった。とも言う。
○毎月の参詣を決意し、大月から町田まで工夫をしながら実践している。(終了後、妙声寺のご住職にお尋ねしたところ、一週間に一回以上はお詣りをされています、というご返事)
○多くの功徳を頂いている。一家揃っての参詣が叶い、仕事の面でも地域で一番の設計事務所になった。

広説寺 Nさん
○母親の葬儀のことを心配してお寺を訪ねてきた学会員を折伏することができた。勧戒の翌週にお母さんが亡くなり、間に合って良かった、と。またこのことから学会には折伏の縁のある方がたくさんいることを感じた。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺