平成18年2月号
「意義深き二月」を全力で!
 二月は、大聖人様のお生まれになった月でもあり、日興上人の御遷化遊ばされた月でもあるため、古来より日蓮正宗僧俗は、特にこの二月を大切にし、異体同心の精進を重ねて参りました。

 本年、「決起の年」を向かえ、私達は改めて、新御法主日如上人猊下より、一天四海広宣流布と、正義顕揚七五〇年の佳節に於ける御命題達成に向かって、僧俗一致して進むべき方途をお示しいただきました。 

 そして迎えるこの二月、御住職は、「決起」とは、一人ひとりが霊山の誓いを思い起こすこと、その自覚と勇気をもって素直に正直に実践する事、とご指導くださっております。さあ皆さん、明るく元気に「二月」をがんばりましょう。
初御講奉修
 新年の初御講が、八日の第二日曜日をメインに、前日の御逮夜法要、十三日の午後と計四回奉修され、御住職と共に御報恩申し上げた。

 皆様既に御承知のとおり仮本堂に移ってからは、日曜日に一回奉修されていた御講を三回に分けて奉修いただいています。漏れなく参詣出来るようにとの御住職のお心にお応えして、「右手に御書、左手にお友達」で参詣しましょう。
御住職ご指導
 


 新年あけましておめでとうございます。ご参詣の皆様にはお元気で一月の御報恩御講に参詣され、真心から御本仏日蓮大聖人様に感謝の思いを込めて修行に励まれることを重ねてお慶び申し上げます。本年も、御報恩のために御講にご参詣になり一生成仏の境涯を確固たるものにするべくご精進されますようにお勧めいたします。

 大聖人様は、このようにして佛乗寺に信心の歩みを運び、読経唱題をし、さらに御書を学び広宣流布の誓いを新たにする皆様の修行をご覧遊ばされ、「『願いとして叶わざるはなし・福として来たらざるはなし・罪として滅せざるはなし・理として顕われざるはなし』との大きな功徳を受けることができるのは、皆様方ご参詣の法華講衆以外にはありません。いよいよ励もうではありませんか」 
とのお言葉をかけてくださっております。

 さて、昨年暮れに総本山六十七世日顕上人が御退位遊ばされ、六十八世日如上人が御登座遊ばされました。申すまでもなく日蓮大聖人様から日興上人、日目上人、さらに代々の御法主上人に受け継がれてきた「唯受一人の御相承」が日如上人に継承されたことを意味します。従って今後は、私たち僧俗は、六十八世日如上人を大導師と仰ぎ奉り、大聖人の御遺命である広宣流布達成に向かって進むことになります。

 日蓮正宗は「代々の御法主上人を大聖人様のお遣いであられる」と深く心に刻み本門戒壇の大御本尊様を唯一の的としてお題目を唱えます。唱題の目的は広宣流布です。広宣流布を目標にした大きな大きな心の信心があってはじめて、個々の身に功徳を受けることができます。我が身のことのみを願う小さな心での信仰には功徳は顕れません。それは『立正安国論』で仰せの通りです。

 代々の御法主上人を大聖人様のお遣いであられる、と拝することは日蓮大聖人様が定められたことです。御法主日如上人の御指南を拝することは、大聖人様の仰せを拝するのである、という気持ちで進むためにも本日の御書を心に染みこませようではありませんか。


『日蓮一期弘法付嘱書』 弘安五年九月 六一歳  
       
 日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。
@ 就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

弘安五年壬午九月 日   日蓮花押
血脈の次第 日蓮日興

(新編御書・一六七五頁)



『身延山付嘱書』 弘安五年一〇月一三日 六一歳      
  
 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。
A 背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

弘安五年壬午十月十三日  武州 池上

日蓮花押

(新編御書・一六七五頁)

 
 この二種類の御相承を拝しますと 大きな違いがあることに気が付きます。それは、
 @ 我が門弟等この状を守るべきなり
 A 背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり
の相違です。

 先の『日蓮一期弘法付嘱書』は日付が九月になっており、身延山で御入滅の約一ヶ月前に御認めになられたことが明らかです。御入滅の近いことを感じられた大聖人様は、主だった門下、六老僧や主要な檀越、例えば南条時光や富木常忍・四条金吾等に、日興上人に法を付された旨のお話があったことと思われます。

 大聖人様から血脈相承の御話を受け給わって、深く信を取り、大聖人様と同じように日興上人にお仕えすることを固く誓う方もおれば、そのことを素直に拝することができない者もおりました。末法の衆生ですから不思議な事ではありません。

『佐渡御書』では、 
「日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし。修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云はく、仏は一究竟道、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はん」 (新編御書・五八三頁)

と述べられております。このことから、佐渡へ御流罪になった大聖人様に対し、「折伏一筋」のお姿を批判し、「もっと別の方法があるだろう、厳しく破折するのはやめて柔らかに法を広めたらよい。念仏無間とか、真言亡国は止めましょう」というようなことをいった弟子や信徒がいたことが明らかです。

『上野殿御返事』にも、
「又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(新編御書・一二一九頁)


と仰せです。

 これらの人々は少しご法門ができると思って慢心を起こし大聖人の御指南を素直に聞くことができずに退転をしてしまったのです。池田大作のような者が御在世にいたことを私たちは忘れてはなりません。

 そして、このような凡夫の姿があることをあらかじめご承知の大聖人様は、制誡を残されたのです。これが、「背く在家出家の輩は非法の衆たるべきなり」とのお言葉です。日蓮の教えに背き、日興への唯受一人、血脈相承を否定し、日興に随わない者は「非法」即ち謗法である、と誠に厳しい御言葉をもって御指南遊ばされるのです。そして、大聖人様のお言葉の通りに非法の衆が現れました。

『富士一跡門徒存知事』の冒頭には、
「先づ日蓮聖人の本意は、法華本門に於ては曽て異義有るべからざるの処、其の整足の弟子等、忽ちに異趣を起こして法門を改変す。況んや末学等に於ては、面々異轍を生ぜり。故に日興の門葉に於ては、此の旨を守って一同に興行せしむべきの状仍って之を録す」 (新編御書・一八六七頁)


とあります。大聖人様が末法の御本仏として説き示された「文底の法門」が理解できなかった五老僧たちが御法門を改変したことが述べられ、大聖人が入滅された直後でさえそうなのであるから、時代が下ればさらに誤りが大きくなるであろうから、今そのことを記して日興の門弟には誤りなきように、とのお心が拝せられます。『五人所破抄』でも同様に五老僧の誤りを破折されております。

 信徒にあっても波木井実長の例から私たちは信仰の筋道を学ぶことができます。身延の地頭であり、大聖人様を九カ年の間外護申し上げた功績は決して浅くはありません。本門戒壇の大御本尊様は身延で建立されたことも事実です。しかし、日興上人の教えに従うことができずに謗法の罪を犯し、ついには本門戒壇の大御本尊様から離れてしまったのです。日興上人が第二祖として身延に入られたときには、
「大聖人様が再び身延に帰ってこられたように嬉しく思います」
と言って、日興上人にお仕えし、信仰に励んでいたのでありますが、五老僧の一人である日向に誑かされ、謗法を厳しく誡められる日興上人を疎んずるようになり、ついには、
「日興上人と私とは元々は同じ日蓮大聖人の弟子ではありませんか。弟子になった時期が早いか遅いかの違いでしかありません」
と言って、悪しき平等観にたって、日興上人の御指南に背くようになりました。この地頭の非法が、「身延離山・大石寺建立」の直接的因となるのです。

日興上人は、『日興遺誡置文』では、
 一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
 一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。 (新編御書・ 一八八五頁)


と御指南です。

「時の貫首」とはそのときの管長ですから、御法主上人の御事です。ですから、御法主上人が、自分勝手な考えをもって大聖人様の仏法に相違するようなことを、言ったり行ったりするならば、それを用いてはならない、という意味です。ここで「仏法」と仰せです。これが大切なところです。

 大聖人様が末法に御出現遊ばされた目的は、「大御本尊様の功徳を全ての人々に受けさせるため」です。そして、「弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊様」を建立され御入滅になられました。従って大聖人様の仏法は「三大秘法の随一・本門戒壇大御本尊様」以外にありません。ゆえに、ここで「仏法に相違」と仰せになる意味は、「本門戒壇の大御本尊様」をないがしろにすることがあったならば、ということです。仮にそのような管首が出たなら、皆で諫めなくてはならない、とのお言葉であると拝するのです。

 総本山代六世日時上人がお書きになられたと伝えられる『大石記』には、
「日興が老耄して念仏を唱えるようになったならば、日興を用いてはならない」
と日頃からお弟子に語られていたことが記されていますが、南無妙法蓮華経と唱えることが大聖人様の仏法ですから、このお言葉は『遺誡置文』の御指南とピッタリと符合します。注意しなくてはならないのは、時の御法主上人の御指南を拝して、御在世の弟子旦那のように、自分の心で判断してはならない、ということです。あくまでも大聖人様の仏法、すなわち「本門戒壇の大御本尊様」を根本として拝することが肝心である、ということです。 

 そういたしますと、大聖人様の仏法の根本である大御本尊様をお守りしているのは誰か、と考えれば信仰の正邪は自ずから明らかになります。私たち日蓮正宗の僧俗が大御本尊様をお守りしているのは紛れもない事実です。この点がもっとも大切なところです。法華講の皆さん、自信と誇りを持ちましょう。どのようなことがあってもこれが一番なのです。

 ところが、信心の眼が曇った者たちは、この御文の意がわかりません。ですから我田引水の解釈をして自己に都合の良いように判断をします。その悪しき例が池田創価学会の姿です。彼らは「世界に仏法を広めたのは創価学会」といって、会員の数の多いことをもって大聖人様の教えであるようにいいます。彼らの視点には「大聖人様の仏法」はありません。ですから、「池田大作が作成した本尊」であっても疑問には思わないのです。この姿が、『遺誡置文』次の項にある、
一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事
なのです。「衆義」とは多くの意見、衆知ということですから、皆が「このようにしよう」と決めたことであっても、大聖人様の仏法でなければ御法主上人はそのことを用いてはならない、ということです。「四個の格言」を忘れて、謗法を認めるような池田創価学会のあり方を厳しく指摘され、その誤りを正そうとされた日顕上人の御指南はこの『日興遺誡置文』のままであることが拝せられるのです。

 昔から、御法主上人を誹謗中傷する輩は、必ず『遺誡置文』の
 一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
を持ち出します。しかして、
 一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。
には頬被りです。この条文は二つ併せて拝することによって大聖人様・日興上人様のお心を受けることができます。
 
 今新しい御法主上人のもとで私たちは本年を出発しました。心も新たに、日顕上人の御指南を拝してお題目を唱え御書を学び、そして折伏に邁進したように、日如上人のもとでさらなる精進を誓おうではありませんか。

 今年は当寺にとっては百年に一度の年です。新本堂の落慶入佛式が執り行われる機会を逃すことのないように、努力を重ねてまいろうではありませんか。

 底冷えのする毎日ですが、寒さに負けないためにも、ご精進・ご精進。春はもうすぐです。


(宗祖日蓮大聖人御報恩御講/平成十八年一月七・八・十三日)
新築工事、順調に進行

 年明けから本格的にスタートした工事が順調に進んでいる。一月三十一日現在、出来上がった基礎の上にコンクリートが流し込まれ、ところどころに鉄筋が組まれている状態になっている。いよいよ柱や、壁といった風に徐々に上に向かってそびえて行く兆しが感じられるようになってきた。

 監督さんは本社から派遣され、工事期間中は完全に東京に暮らしを移して、日夜新築工事に従事してくださっている。また、昨年御授戒を受けられ、朝夕の仕事の初めと終わりには必ず本堂の御本尊様に御挨拶をされている。(職人さん方も御授戒こそ受けていないが、仕事始めと終わりに同様にお参りされている) 

 昨年よりずっとお寺では毎晩七時から八時まで勤行・唱題が奉修されているが、時折残業を終えた監督さんが最後までお題目をあげられている姿がある。大変に頭の下がる思いである。

 また、監督さんと一緒に新築の無事を祈り、お題目をあげることができるとはなんとも有りがたく不思議ですらある。最高の堂宇となる事疑いなし、と強く観ずるものである。ぜひ皆様にも、夕方のお参りをお勧めいたしまして、新築状況のレポートと致します。
上級教学試験行われる
 昨年の中級試験に引き続き、本年は上級教学試験が、一月二十二日、新宿の大願寺で厳正に行われた。

 この試験に向け、昨年から週一回のペースで勉強会を開いていただき、受験者はもとよりたくさんの方が、日蓮正宗の相伝の仏法の深義を御住職より学んだ。


 試験本番は、おりしもセンター試験の二日目にあたり、私達も彼らと似た緊張を感じながら(?)、前日降った大雪の中を会場へ向かった。

 試験の出来不出来はそれぞれあった様だが、挑戦者は自身の未熟さや、教学の面白さ、大切さ等を感じ、「行学の二道をはけみ候へし」の御聖訓をこれまで以上に、一歩深く身に当てて読む事が出来たようである。というのも、「試験が終わってからのほうが落ち着いて勉強できるわ」とテキストを開いているという声をあちこちで聞く。

 センター試験の勉強は終わってしまえば忘れても良いが、教学はそうはゆかない。日々の積み重ねは、三世の財・心の財となり、不退転の信心・法燈相続を築く。

 来年は、初級試験が行われる予定です。試験の合否はたいした問題ではありません。(負け惜しみではないですよ笑)

 チャレンジするところに深い意義があるようです。ふるって御参加を!また今回受験された皆様、御苦労様でした。
一月度・広布推進会開催される
 一月二十五日、新宿(大江戸線・若松河田徒歩二分)の大願寺にて、一月度の広布推進会が開催された。広布推進会は、東京第二地方部の十九ヶ寺、全二十ヶ支部が切磋琢磨しながら、足並みをそろえて広宣流布に前進するための、大切な会合である。

 ゆえに、その時々に貴重な体験や熱のこもった適切な指導を頂く事が出来る。今回三人の方に感想を頂きました。お三人の歓喜が伝わってきます。

 次回は、二月の二十六日(日)の十五時から(十四時唱題行)蒲田の宝淨寺(蒲田駅より徒歩五分)にて行われる。どなたでも参加する事が出来ます。お気軽に各地区長さんにお申し出下さい。  



 年間方針「決起の年」に本年初めての広布推進会が大願寺にてとりおこなわれました。

 いつも参加させていただき感じる事は、信心の基本は勤行・唱題を正直に、一念を込めてあげ切る事の大切さを教えて下さっていることです。

 慈本寺御住職様のお話の中で、病気の子供を持つ親の強い一念の信心で、子供が笑顔を見せてくれたとの由。子供を思う親の必死に御本尊様に心の底からお題目を唱えている姿が目にうかぶようです。

 相手を思う心からわいてくる慈悲の気持ちを忘れないで、朝晩の勤行・題目を唱えて改めて折伏に頑張ろうと再確認致しました。一年に一人が一人の折伏を実践したいと感じてまいりました。

高橋さん


 青梅の慈本寺の御住職様は御書の一節をおしゃって題目三唱し、皆さん達は目には見えないが三十二相の面をもつ地涌の菩薩です。真理の大地から踊るように涌き出た。如意神通の力をもっているのでなりたい自分になれます。等と話され、あるご婦人の体験を目に映るように感情豊かに話してくださいました。

 表情がない無表情という障害をもつ子のお母さんの事です。病院の医者には治りませんと説明されますが、時々子供の顔が引きつるのを見ては、「先生、笑いました!」と言いに行っていました。

 御本尊様のことも話し必ず良くなると先生に話し、題目をあげていました。「生んでごめんね」「御本尊様、この子に一回でいいから、にこっと笑わせてあげてください」と時間の経つのも気付かず題目を上げ、「なんで願いをきいてくださらないんですか」と叫んでいました。ふと後ろに気配を感じ、振り返って見ると、その子が笑っていました。急いで病院へ連れて行きました。先生は医学会でも例がない事なので驚き、日蓮大聖人様のすごさを教えることができました。その婦人も更に確信が深まりました、とのお話でした。

 私も大聖人様のすばらしさを多くの人に伝えたいと思います。

園部さん


 慈本寺の御住職の「地涌の菩薩」についてのお話しにとても励まされました。

 「この信心によってなりたい自分になれる」「自分でも納得のできる人生を送ることができる」この言葉を、自分の中で現実のものとして体現していけるよう、自分の信心の姿勢を見返しつつ、いよいよ励んでいこうと思いました。

 「冬は必ず春となる」最後の御文が胸にしみました。

角田さん
「決意」
 テレビCMは、時代の世相を現すと言われる。最近、私が見たCMで政府広報のものがあった。両親が子供に向かって、ひたすら頑張れを連呼する。その親の励ましに頭を抱え、その子供は最後に絶叫する。

 玄田有史さんが、中央公論新社から『仕事のなかの曖昧な不安』という本を出した。終章の項に、「十七歳に話をする」とある。二二九頁からここに引用したい。


「テレビで、シドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを取った高橋尚子選手のドキュメンタリーを観ました。高橋選手が金メダルを取るまでの四二・一九五キロを取材したNHKの番組でした。レースまで高橋選手は金メダルの最大のライバルを、世界最高記録を持つケニアのロルーペという選手だと考え、きびしい練習を重ねてきました。『ロルーペに勝たなければ金メダルはない』と。

 結局、レースでロルーペさんは一度も先頭集団に加わることなく、上位入賞できなかった。でも、レースの中盤まで高橋を含む先頭集団は、「いつか本命のロルーペは追いついてくるはずだ」と不安を持ち続けながら走っていた。そんな状況のなか、二二キロあたりで高橋さんはスパートを決意します。そのきっかけとなった小出義雄監督のアドバイスは、「頑張れ、高橋!」ではありません。「ロルーペ来ない!ロルーペ来ない!」。この短い言葉だけを何度も繰り返すのです。

 高橋選手はレースの中盤の最も大切な時点で、一体、どんなアドバイスや励ましを最も求めていたのか。その緊迫した状況で「ロルーペ来ない」以上に、具体的で簡潔な励ましの表現はないでしょう。実にすばらしいタイミングで、高橋さんが最も必要とする励ましの言葉を、小出監督は投げかけている。この言葉を聞いて高橋さんは、金メダルを取るには横を走るルーマニアのリディア・シモンさんに勝てばいいのだと、冷静にファイトできたのです。その結果が、ご存知の日本女子オリンピック初の陸上金メダルです。」


 さて、平成十六年の破邪顕正の年に、光久日康御尊能化様が次のような御指導をされている。

 「私達の未来にとって今一番の課題は、青少年の育成です。青少年が騒がしく怪しげな情報の飛び交う中でも、自分の志を見失わず、しっかりと仏様の心に向けて、前向きに尊いものを尊んで生きていくことです。そのためにはまず青少年が、自分の心と向き合わなくてはなりません。自分の心と向き合わない人が、人の心と向き合えるはずがありませんし、自分の生活を向上させられるはずもありません。」      (大白法・平成十六年五月十六日号)

 シドニーオリンピックで小出監督が、高橋選手に見事な励ましを与え、金メダル獲得に貢献した。それは小出監督自身が、自らのマラソン経験から深く自己を見つめ、選手の苦しみを心底から共感できる心を持っていたからだろう。ここに、様々なことを教えられるように思う。

 平成十八年の「決起の年」を迎えるに当たり、笠原御住職は、皆さんが霊鷲山で仏様に約束したことを思い出し、行動を起こしましょうと御指導された。自分の心に向き合うということは、この笠原御住職の御指導を素直な心で受け止めることだと思う。室井折伏推進委員長や、根橋婦人部長のように、身近に折伏実践の手本が存在する。佛乗寺信徒として、これら先人に続いていけるようになりたい。

山中さん
編集後記
 育成や折伏においても、相手の悩みを知り、そういう悩みを自分でも感じ、それを苦しみながもお題目をあげきって解決した経験のある人の言葉は、より相手に通じる力をもっているという事でしょう。さらには、相手を想う強い一念があって初めて、本当にその人に必要なアドバイスが何なのか、御仏智が湧くのだなぁと痛感しました。

 貴重な『決意』お寄せいただき有難うございました。皆さんも普段お感じになっていることなど、「向陽」に載せて発信してみませんか。お待ちしております。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺