平成18年6月号
御住職ご指導
『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』 御講拝読御書  十八年六月

 今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。「謗に因って悪に堕つは、必ず因って益を得」とは 是なり。我が弟子之を惟へ。

(御書六六〇頁 )


【現代語訳】

 今の時代は末法の初めにあたっています。この時代のことは経文にあらかじめ説き示されております。それは、低い教えの小乗教が高い教えの大乗教を打ち倒したり、仮りの教えである権教が真実の教えである実教を破る様子は、東を指して西といったり、反対に西を指して東といったりして、結局東も西もわからなくなったようなものです。天と地を逆さまにしたような状況になっているのが今の時代なのです。
 この時代には、法華経の迹門を説く役目の菩薩たちは、「末法において法を説き弘めることは自らの役目ではない」として姿をあらわすことはありません。国土を守り衆生を守る役目の諸天善神は、彼らが欲する正法の法味を味わうことができなくなりましたので、この国を捨てて天上界に帰ってしまい、この国に住んでいる人々を守ることはありません。
 このような状況の現在ではありますが、法華経の神力品二十一では、末法には妙法蓮華経を受持し妙法蓮華経を人々に弘める地涌の菩薩がはじめて出現されることが説き示されております。そして、但だ妙法蓮華経の五字を幼稚な末法の凡夫である私たちに与えられたのです。無理矢理にでも妙法五字の薬を飲ませる理由を、妙楽大師は、「妙法蓮華経を謗ずることに因って悪道に堕ちるが、そのことが因となって必ず成仏の利益を得る」と説いています。我が弟子たちよ、この折伏の意味を深く考えなくてはなりません。


【ポイント】

 「謗に因って悪に堕つは、必ず因って益を得(因謗堕悪必因得益)」は妙楽大師の著である法華文句記第十の文。原典では、「問ふ。謗に因って悪に堕すれば菩薩は何が故に苦を作る因を為すや。答ふ。それ善因無き者は謗ぜざるもまた堕す。謗に因って悪に堕せば必ず由りて益を得ること、人の地に倒れて還って地に従りて起つが如し。故に正謗をもって邪堕を接す」となっています。大聖人は「由」を「因」と読み替えられてここにお示し下さっております。

 妙楽大師は、「質問する。なぜ正法を誹謗して地獄に堕ちることが最初からわかっているのに正法を説いてそのような因を作るのであろうか。答える。正法を信じていない衆生は常に悪事を行っている。だから正法を信じないものは正法を謗ずることがなくとも地獄に堕ちるのである。そこで、地獄に堕ちたときのことを哀れに思う故に、いま正法に縁をさせているのである。素直に正法を信じることができるならばそのまま成仏の功徳を受けることができる。また信じることができず誹謗をし地獄の苦しみを受けたとしても、過去に正法に縁をしたことにより、やがて必ず正法に巡り会って成仏の功徳をうけることになる。人が大地につまずいて倒れたとしても、その大地に手をついて立ち上がるようなものである。ようするに、正法を説くことにより、謗法の者を救うことを意味している」と説いております。

 この文を大聖人が引用されたのは、御本尊様のお力の大きさと末法の衆生の罪障を教える上からであると拝します。私たちが折伏の修行をする意味もここにあります。

 今の世の中の人々は、自己中心の信仰しかしておりません。仏様の仰せを信じているようで結局は自分中心の信仰です。そのような信仰では幸せになることはできないのは当たり前です。凡夫の浅はかな考えの域を出ないのですから。大聖人様は、全ての人の命の中に仏がある、と仰せ下さり、御本尊様を受持して拝むことにより必ず仏に成ることができる、と教えてくださり、その教えに一度は背くことがあっても、御本尊様の大きな力によって再び御本尊様の教えに戻り、こんどは成仏することができるのであるから、謗られることを恐れずに勇気を出して折伏をしなさい、と教えてくださるのです。

 日寛上人は、「本尊抄文段」で
「但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」
の御文を、本尊抄の前に示されている御文、
「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(六五四頁・十二行目)
とあわせて拝し、末法の仏様の御姿とその仏様がいま御出現になることを明らかにされていると御指南されています。

 さらに、その上で、ここでの「妙法蓮華経の五字」は御本尊様のことである、と日寛上人は明確に仰せです。したがって、この妙法五字を服する、とは御本尊様を受持してお題目を唱えることに他なりません。そして、その修行、すなわち、「幼稚に服せしむ」は私たち末法の凡夫にとっての「観心」となる、と仰せです。

 観心とは、心を見ることです。私たちの命の中に、地獄の心も仏の心も具わっていることを観じることです。「観じる」とは自覚するといっても良いでしょう。「私にも仏様の心がある」と自覚するならば、その時、その瞬間は仏の境界なのです。「あの人の心にも仏様がある」と見ることもできるようになります。

 苦しい、どうしようもない、とあえぎもがいているときは地獄の境界です。永遠に続くと思われる苦しみが無間地獄の姿です。凡夫は一度苦しみの中に落ち込んだなら、決して浮かび上がることができないように感じ、苦しみの中に沈んでゆくばかりです。反対に調子の良いときには、いつまでも良い状態を続けようと無理をします。結局元の木阿弥となったのが、ライブドアであったり村上ファンドです。自らを見誤った結果です。つまり、自己を見つめることがなかったのです。見つめていたとしても、十界の全てを見ることがなく、修羅界餓鬼界を見て、そこに支配された心であったのです。仏界とはいいませんが、せめて菩薩界の一分でも感じておれば社会に貢献する人材になりえたことでしょう。惜しいですね。

 また、日寛上人は毎朝毎夕読誦する寿量品にこの御文をあてはめて御指南下さっております。御書の「妙法蓮華経の五字」が御経文の「是好良薬」。「幼稚に服せしむ」を「汝可取服」と。寿量品では、医師である父親が、誤った薬を飲み副作用で苦しむ子供たちの病を癒すために、「是好良薬・今留在此・汝可取服・勿憂不差」の処方を施すことが述べられております。ここに良き薬を調合しました。子供たちよ、手にとって飲みなさい。必ず良くなります。ただしすぐに効き目があるとは限りません、とされるのです。

 「勿憂不差」は、(いえじとうれうることなかれ)と読み下します。差(いえじ)は病が良くなること。勿(なかれ)は、してはならない、という意です。したがって、「勿憂不差」までを通して拝することが大切です。繰り返しますが、良き良薬を調合して飲ませてあげましょう。必ず良くなります。しかしすぐに効き目があるとは限りませんので、効き目がないといって私の薬を疑ってはなりません、と仰せになる仏様のお心をしっかりと拝することが大切です。

 また、「勿憂不差」は、「因謗堕悪必因得益」にあたるように思えます。なぜならば、どちらも仏様の確信を明らかにされたものだからです。経文は、必ず良くなります、すぐに効き目がなくとも疑ってはなりません、であり、文句記は、今は素直に信じられず救われることはないが、やがてこの教えによって救われるのである、という確信を拝することができるからです。


【まとめ】

 私たちは、過去において、「因謗堕悪必因得益」の衆生であったのでしょうか。それとも、「宿縁深厚」の衆生であったのでしょうか。どちらであったのかは定かでありません。ただし、現世において正法に縁をしていることは間違いがありません。今世で正法を受持することができていることから考えるならば、過去も良い過去であったのです。また今世で御本尊様を受持することができたならば、来世も良き来世になります。これが大聖人様の教えです。その教えの根本には「三大秘法の大御本尊様」があります。拝読した本尊抄の御文から、日蓮大聖人様の御確信、また御本尊様の絶対の御利益を拝し、大聖人様の御確信を私たち一人ひとりの確信とすることが自己を高めることになります。確信を持つことは即折伏に通じます。周囲を導くことにより、さらに自己を高めることが可能となります。そして一生成仏の境界を不動のものにすることができるのです。

 本堂も順調に工事が進んでおります。御法主上人をお迎えして落成入仏式が奉修されます十一月二十三日に、一人が一人以上の折伏を達成し、誇らしい気持ちで御法主上人の御前に進むことができますように皆で進んでまいりましょう。
編集後記

 いよいよ夏期講習会登山が始まりました。

 大御本尊様まします総本山において、御法主上人猊下より直々に御講義を賜ることが出来るこの機会に、正しい信行学を身につけて、いよいよ精進して参りたいと思います。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺