平成18年8月号
御住職ご指導
『四条金吾殿御書』 (御書四六九頁)

 雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒(つつ)、御布施一貫文、態(わざ)と使者を以て盆料送り給(た)び候。殊に御文(おんふみ)の趣有り難くあはれに覚え候。
 抑(そもそも)盂蘭盆と申すは、源(もと)目連尊者の母青提女(しょうだいにょ)と申す人、慳貪(けんどん)の業によりて五百生餓鬼道(ごひゃくしょうがきどう)にを(堕)ち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはな(成)さず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年(りょうぜんはちかねん)の座席にして法華経を持(たも)ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつせんだんこうぶつ)となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。


■意訳

 お盆の追善供養の御供養として、雪のように白く精米され清らかな心が込められた白米を一斗、古酒のような琥珀色の油を一筒、御供養として一貫文、わざわざ使者を立ててお送り下さったものを確かに拝受いたしました。ことに、あなたの送り状の中にあった母上の来世を心配される親孝行なお心に触れ、日蓮は強く感激をするとともに貴く思います。

 そもそもお盆の法要の始まりは、釈尊の十大弟子の一人であり、不思議な神通力を得た目連尊者の母親である青提女を餓鬼界の苦しみから救ったことにあります。

 青提女は生前に托鉢(たくはつ)の行で訪れた釈尊に、さし上げる食べ物があるにも拘わらず、「私のところにはさし上げるものがない」といって御供養をしませんでした。そのように物惜しみをした、「慳貪の罪」により五百回生まれ変わるほど長い長い間、欲しいものが手に入らない、という餓鬼界の苦しみを受けておりました。そのことを知った目連尊者が、母親の苦しみを救うために、千人の僧侶に百種類の食べ物を御供養して、青提女を餓鬼界の苦しみから救うことができたのです。お盆はここから始まりました。

 ところが、目連尊者は母親を餓鬼界の苦しみから救うことはできましたが、成仏という最高の境界に導くことはできませんでした。なぜならば、目連尊者自身が仏ではなかったからです。やがて目連尊者は、霊鷲山の法華経を説法された法座に連なり、その席で未来に多摩羅跋栴檀香仏となることを約束され、その時に母の青提女も共に成仏が叶えられました。


■お盆の法要を通して

○一つ目は、欲張らないことです。
 青提女はたった一杯のご飯を惜しんだことで五百回生まれ変わるほどの長い間、餓鬼界から出ることができなかったのです。餓鬼界とは物が欲しくて欲しくて仕方のない心の状態です。一時も満ち足りた心になることができない、そのような状況を想像してみてください。「お金で買えない物はない」という風潮に支配された私たちへの警鐘でもあります。十億円の貯金があっても十億一円を望むような心を餓鬼界といいます。やがて堀江某、村上某のように身を滅ぼします。

 仏法では、「喜捨」を説きます。読んで字の如く「悦んで捨てる」という意味です。何を捨てるか、そこが大切なところです。そのことを御文で拝しますと、
「雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候」
とございます。今日から見ますと、お米は白くて当たり前ですね。しかし年配の方にお伺いするところによれば、白いお米は宝物のように感じた、といわれます。ことに戦後まもなくの頃はそうであったと聞きます。鎌倉時代ですからなおさらでしょう。白米の持つ意味が理解されます。しかも、「雪のように白き」ですからおそらく、四条金吾さんご自身が精米をされたのでしょう。母親を思うこの真心が伝わってまいります。また油やお金も同じです。ともに貴重な物です。それらをさらに、わざわざなのです。ついで、ではありません。お盆の供養のためだけに使いを立て、日蓮大聖人様に御供養をされる、そこに真心を尽くす姿を見るのです。

 大切な物、貴重な物を仏様にお供えすることにより、執着の心を捨てる修行をすることを教えてくださるのです。亡き方を前にして、命は永遠ではないと悟り、蔵の宝は死後の頼みとはならない、と知ることにより執着の心から解放されたことを喜ぶのです。餓鬼界の苦しみのもとになるのは、悪しき執着心ですから、それを未然に防ぐために喜捨を勧める、といえます。

○二つめは、私たちの修行、という点です。
 目連尊者が法華経の修行をして、法華経の修行による功徳で仏に成り、母親を成仏に導くことができた点を見逃してはなりません。

 日蓮正宗は「常盆・常彼岸」の宗旨です。意は、いつもお彼岸やお盆の心持ちでご先祖の供養をする、ということと、いつも変わらずに修行に励む、という二点にあります。

 三百六十五日朝夕勤行をする宗旨がほかにありますか?毎月毎月お寺にお参りして僧侶と一緒にお経を読んで修行をする宗旨がありますか?本宗のように毎日朝夕御本尊様に手を合わせ、僧俗和合してお経を読む宗旨はほかにありません。これが修行であり、その修行に成仏の功徳が具わるのです。そして、私たちが成仏の喜びを感じることによって亡き方も喜びを共有することができるのです。御文では「此の時母も仏になり給ふ」と仰せ下さいます。

 このように、日蓮正宗では、僧侶にお経を読んでもらってそれで良し、とはしません。願い出た方々もともに法華経を読み、御本尊様にお題目を唱え、一人ひとりが功徳を受け、その功徳が亡き方に届くことにより本当の成仏が実現する、と説きます。

 日蓮大聖人様は、「日蓮の修行は自行化他である」と仰せです。亡き方ばかりではなく、生きている周囲の方々にもお盆の意義を伝え、共にお盆の修行に励むように勧めることが本当の修行です。暑い中ではございますが、日蓮大聖人様の仰せのままに修行に励む日蓮正宗の宗旨に、誇りと自信を持って進んでまいりましょう。〈平成十八年七月〉
「お経文を学ぶ」
【自我偈 その一六】  (永代経 平成十八年五月一日)

【御経文】

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命


■書き下し文

我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ 衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず


■現代語訳

私が仏になってより経過した年数は無量百千萬 億載阿僧祇という永い永い年数です。この間、私は常に法を説いて億の無数倍という多くの衆生を教え導き、仏の道に入らせました。そのようにして今に至るまで計り知ることのできない時が経過しております。衆生を救済するために、教化の方法として涅槃を現したこともありまが、実際に入滅したわけではありません。常にこの裟婆世界にあって法を説いているのです。私は常にこの裟婆世界におり、さまざまな神通力を用いて、心が顛倒している衆生には、近くにいても見えないようにしているのです。衆生は、私の入滅の姿を見て、広く舍利を供養し 皆おなじように恋い慕う心を懐きます。衆生はすでに教えを信じ順うことを決意した上は、心が素直で柔軟になり心から仏にお会いしようと願って自らの命も惜しまないようになりました。


【億載阿僧祇】 載は中国古代の数の名称
一(いち) 十(じゅう) 百(ひゃく) 千(せん)
一万(まん) 十万 百万 千万 億(おく・十の八乗)一億 十億 百億 千億 一兆 十兆 百兆 千兆 一京(けい) 十京 百京 千京 一垓(いちがい)十垓 百垓 千垓 一穣(いちじょう) 十穣 百穣 千穣 一溝(いっこう) 十溝  百溝  千溝 一澗 (いちかん)十澗 百澗 千澗 一正 (いちせい)十正 百正 千正 一載(いちさい・十の四十四乗)十載 百載 千載 一極(いちごく)十極 百極  恒河沙(ごうがしゃ) 一恒河沙 十恒河沙 百恒河沙 千恒河沙
阿僧祇(あそうぎ) 一阿僧祇  十阿僧祇  百阿僧祇  千阿僧祇
那由他(なゆた) 一那由他  十那由他  百那由他  千那由他
不可思議(ふかしぎ) 一不可思議  十不可思議  百不可思議  千不可思議
無量大数(むりょうたいすう) 一無量大数 1069 十無量大数 1070 百無量大数 1071 千無量大数

 億は十の八乗 載は十の四十四乗 したがって億載は五十二乗となる。さらに阿僧祇は十の五十六乗であるから、億載阿僧祇は十の百八乗となる。恒河沙はガンジス川の砂の数、という言い方もあるぐらいで、途方もない年数の間衆生を導かれたことを述べられている。このことから、私たちの思考を超えたところに仏の教えがあることを知らねばならない。方便品で学んだ「唯仏与仏」の一端を思い出すところである。私たちの周りは不思議なことだらけです。宗教を科学的ではない、と否定する人々にこそ、お経文に示される不思議を教えてあげようではありませんか。そのことが、大聖人様の仏法を正しく伝える日蓮正宗の信仰を皆に教えることにつながります。その修行に成仏の功徳が備わります。

 皆様のご精進をお祈りいたします。
寺院建立に向けて 〜2〜
(青年部 山中さん)

 喜劇王チャップリンが、『自伝下』の中で次のような言葉を述べている。
「わたし自身の経験によれば、それを達成するうえに一番大事なことは、なんといっても自分自身の位置づくり、いわゆるオリエンテーションということである。つまり、舞台上の一瞬ごとに、自分はいまどこにいるのか、何をしているのか、を知ることである。まず舞台へ出ればすぐに、どこで止まるべきか、どこで向きをかえるべきか、また、どこに立って、いつ、どこに坐るべきか、さらにほかの登場人物に対し、直接話しかけるべきか、それとも間接に話すべきか、そういったことをすべて、はっきり自信をもって知っていなければならない。そうしたオリエンテーションこそが権威を与えるのであり、プロとアマのちがいも実にここにある。」

 このチャップリンの言葉に対し、齋藤孝氏は次のような意見を述べている。
『実際、チャップリンは映画のワンシーンの中から長い仕事生活においてまで、自分の位置づくりに卓越した才能を発揮したと言えるだろう。彼は常に、いま自分はどこに立っていて、どこに行くべきか、ここで坐るべきなのか、立つべきか、あるいは歩くべきか、といったことをクリアに意識していた。

 だから、チャップリンの仕事は、いい作品を作ったら次はガーンと落ちてしまうということはなく、次々とアイデアを出し、らせんを描くように進化した作品をつくれた。それは人生のその一瞬、一瞬の自分の位置をクリアに意識して、これからどういう方向に進んでいけばいいかという位置づくりがきちんとできていたからである。

 自分の位置をきちんと意識できず、これからの方向も、どうすればいいかということも見えないと、たとえ一つすばらしい仕事をしたとしても、次はまったく違うことをやってみようなどと、それまでの自分の位置を台無しにするようなことをして、失敗しがちだ。チャップリンの人生を見ると、まさに人生という舞台でも名優であったことが判るのだ。」

 チャップリンという人は、幼い頃はとても貧乏な家庭の中で育った。しかし心の中は決して貧乏ではなかった。私は、チャップリンの残した言葉でとても印象深いものがある。
 『生きていくには三つのものがあればいい。希望、勇気、そしてサム・マネーだ。』

 この言葉に彼の心の境界が現れていると思う。言うまでもなく、チャップリンは仏道修行をして生きたわけではないが、世界史に名を残すだけの人間性があった。

 チャップリンが自分の位置をきちんと意識していたということを、創価学会の人たちはどう思うだろう。日蓮正宗の信仰には、僧俗の立場の違いがある。各々の立場での使命が違う。自分の位置をはっきり自覚してこそ、幸せの道が開ける。これは理屈ではなく道理であり、正しい道理に背けば必ず不幸な結果が現れる。

 欲求不満の人間は、他人の悪口が大好きであるようだ。心の虚しさが解決できない人間は、本当の自分自身から逃避しているのだ。

 「一生成仏抄」に、心を観じることがいかに大事であるかが書かれている。
 『然れば天台の釈の中には「若し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり。』(御書四六頁)

 唱題行、折伏行を生活の根本として自らの心を観じられれば、人生における自分の位置が明らかに見えてくるはずだと思う。それを妨げているのが、自我と謗法の心だろう。

 『名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし。』 「持妙法華問答抄」 (御書二九六頁)
佛乗寺折伏推進委員会開催
 七月十六日、夕方七時より、本堂において折伏推進会が開催された。

 これには、御住職ご出席のもと、野島講頭・関塚副講頭・室井折伏推進委員長をはじめ、各部の役員・総地区長が出席した。

 開会に先立ち、五時半の勤行の後、御住職の導師により一時間の唱題行を行い臨んだ。

 会は室井折伏推進委員長を中心に、各総地区長より、それぞれの地区における折伏座談会等の開催状況についての報告が行われ、十一月二十三日に向け何がなんでも本年度の折伏請願目標をやりきっていくことを確認しあった。
編集後記

 いよいよ落慶法要まで余すところ三ヶ月と少々。これを立派に成し遂げるか否かは我々の信行如何。一人ひとりが「時」と、「自覚」に深く思いを馳せ、今立っているその場所に宝塔を立ち上げよう。

 我々一人ひとりを常に大御本尊様、御法主上人が導いてくださっていることを片時も忘れてはならない。みんなで手を取り合い、自行化他の歩みを進めよう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺