平成19年9月号
御住職ご指導
御講拝読御書  平成十九年八月

『撰時抄』 八四四頁

法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云々。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり。また、主君なり


【通解】

法華経を弘める者は日本に住むすべての人々の父親であり母親である。天台大師の弟子である章安大師は、「間違った信仰をしている人に対して、それは誤りであると指摘し正しい信仰に導く行為は、その人にとっては親と同じような立場にあるといえる」と言っている。このようなことから考えるならば、日蓮は現在の国主の父母であり、念仏を信仰するものや禅宗を信仰するものや真言宗の者たちにとっては師匠であり、主君である。


〈主師親の三徳〉

 ここでいう徳とは「力」及び「用き」のことをいいます。「主徳」とは人々を守る力、用きのこと。「師徳」は人々を導き教え化導する力、用き。「親徳」は人々を深く優しく愛する力、用きのことです。
 この三種類の徳を備えていることが人々を成仏に導くことの出来る仏様の絶対条件です。狭い意味では私たちもこの徳を備えているといえます。学校の先生は師徳です。親は親徳であり、会社の社長は社員にとっては主徳であるといえます。しかし、全人類にとって三徳を兼ね備えておられるのは仏様だけであることは、法華経を解釈してくださった『御義口伝』で、
「本門の仏の主師親の三徳は、主の徳は我此土安穏(我が此の土は安穏にして)の文なり。師の徳は常説法教化(常に此に住して法を説く)の文なり。親の徳とは我亦為世父(我も亦為れ世の父)の文是なり。乃至今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は一切衆生の父なり。無間地獄の苦を救ふ故なり云云。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」云云。日蓮が云はく、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是日蓮一人の苦なるべし」(一七七〇頁)
と大聖人様が示されるごとくです。

 大聖人様のことを身延派では「上行菩薩」という立場でしか拝することが出来ないのは、当抄や『開目抄』での、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(五七七頁)
の御文を素直に拝することが出来ないからです。

 また、大聖人様を三徳兼備の仏様だ、と拝しながら、慢心を起こした創価学会の池田大作のように、「俺が仏だ」となるともっと困ったことになります。勲章や名誉称号を集めることに血眼になっている姿は、この三徳を意識したものです。提婆達多が仏の三十二相の一つである「眉間白毫相」を真似て、額に蛍をつけたのと似ています。無間地獄に堕ちる、とお経文にある通りですから行く末が気の毒です。さらに気の毒なのは、そのような者に従う創価学会員です。だから私たちが救ってあげなくてはなりません。

『撰時抄』については「日蓮大聖人正伝」に詳しく述べられていますので以下に引用をいたします。


(一)撰時抄述作

 文永十一年(一二七四年)は蒙古の来襲という大事件が日本全土をゆるがした年であった。明けて文永十二年(建治元年)の四月十五日に再び蒙古の使いとして、杜世忠等が長門(山口県)の室津に到着した。そこで幕府は、早速杜世忠等の使節を鎌倉に召喚し、蒙古国の情勢を尋ね、その実情を知るにおよんで、ただ恐怖感をつのらせるばかりであった。

 大聖人はこうした幕府の動揺と民衆の不安を、身延の山中にあって強く感じられておられた。そしていまこそ、五濁悪世闘諍堅固の末法にはいかなる仏法を弘めるべきか、またいかなる教えによらねばならないかということを世の人々に知らせるため、『撰時抄』と題する二巻からなる書を、建治元年六月十日に著し、日興上人の外戚にあたる駿河西山の由比氏に与えられた。

 当抄は身延入山後一年を経たこの時期をふまえ、末法という時の観点から二段に大別して論じられている。一つは過去佐渡期までの法門、とくに弘長配流に開示された五綱の教判が真実であったことを、御自身の身読によって証明されたことを述べられ、もうひとつは将来の化導、すなわち妙法流布の必要性を論じ、大聖人のお振舞いこそ法華経の真髄で在り、末法の法華経の行者たる大聖人の教えによらなければ一国の安泰はありえないことを、烈々たる確信をもって訴えられている。

 まず題号について日寛上人は『撰時抄愚記』に、「撰時」とは正像の時を「撰捨」し、ただ末法の時を「撰取」するゆえに『撰時抄』というと釈され、別して末法の時を撰取する意について、
「問う、別して末法の時を撰取する意如何。答う、此に両意あり。一には末法に於ては、必ず応に文底秘沈の大法広宣流布すべし。二には今末法に於て応に日蓮を以て下種の本尊と為すべきなり」(富要四ー三三一頁)
との二意あることを示されている。

 また、「釈子日蓮述」の「釈子」について五義を挙げ、
 「第一には、蓮祖はこれ本化の再誕なるが故に。(中略)第二には、蓮祖は能く法の邪正を糺したまう故に。(中略)第三には、蓮祖は能く謗法を呵責したまうが故に。(中略)第四には、蓮祖は能くこの経を読持したまうが故に。(中略)第五には、蓮祖は即ちこれ本因妙の釈子なるが故に」(富要四ー三三三頁)
と釈されている。すなわち、大聖人を外用の辺からは、上行菩薩の再誕・法華経の行者としての「釈子」とし、内証の辺からは、本因妙の釈尊とするのである。「釈」とは釈尊の義、「子」とは因の義、ゆえに本因の釈尊とは、『本因妙抄』に
「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」(新編一六八四頁)
とあるように、日蓮大聖人が久遠元初本因名字の教主であることは明白である。ここに「釈子」の本義があると釈されている。

 本抄の内容は、冒頭に、
 「夫仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(新編八三四頁)
と仰せられ、宗教の五綱の中で肝要なのは、「時」であることを明かされている。つづいて釈尊滅後、正法・像法・末法における釈尊の予言と、インド・中国・日本の三国にわたる仏法流伝の相を示し、それぞれの時代と国土に流伝した相応の仏法を説き示された。そして末法の今、白法隠没の時代には上行菩薩が出現して、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法を広宣流布し、一切衆生を救うことを明らかにされている。その上行菩薩とは末法の仏であって、日蓮大聖人御自身であることを暗に示されているのである。これは五綱の第五、教法流布の前後を合わせて論じたものである。

 また本抄では、真言、念仏、禅等の諸宗は時に適わぬ教えであり、その教義の誤りをも指摘され、国土の災難は諸宗の謗法によることを断言され、とくに真言宗の邪義を徹底的に破折されている。そして本抄に一貫して流れる大聖人の主張は、
「如来の教法は必ず機に随ふという事は世間の学者の存知なり。しかれども仏教はしからず。(中略)機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり。」(新編八四六頁)
ということである。すなわち仏法においては、凡夫の機情に合わせて法が説かれると解釈することは大なる間違いであって、凡情の機の順逆にかかわらず、時の定める法によらねば、利生得益はないと仰せられるのである。では時とは何かというと、正像末の三時である。この三時とは仏の甚深の開悟、すなわち法界の真理であって、誰人もこれを改変することも、逃れることもできないのである。

 いまこの厳格なる法界の規定ともいうべき時をもって論ずるならば、末法現時は法華経の弘まる時であり、法華経によらねば一切の利益のない時である。

 今当抄の、
「日出でぬれば星かくる。賢王来たれば愚王ほろぶ。実経流布せば権経のとゞまり、智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此に随はんこと、影と身と声と響きとのごとくならん。日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(新編八六四頁)
と、大聖人がまさに日本を救うべき者であることを説かれたこの文は、『開目抄』の三徳具備の文と軌を一にしたものといえよう。これは、一閻浮提第一の法華経の行者、すなわち末法の救世者は日蓮一人なりとの大確信であり、御本仏の境界に立たれてのお言葉である。

 したがって、末法に生を受けた人々こそ、この妙法に値遇できることを悦ぶべきであるとして、
「道心あらん人々は此を見きゝて悦ばせ給へ。正像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。此を信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし」(新編八三八頁)
と述べられ、最後に弟子一同に対して
「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」(新編八七一頁)
と不惜身命の信心に立つことを促されている。

 来月の十六日は支部総登山です。この支部総登山は、一年に一度、支部全員で登山をして、罪障消滅の修行に励みなさい、という御隠尊日顕上人の御指南に随順するものです。中には、団体行動は苦手、一人で登山した方が気楽、という方もいると思います。ですが、支部総登山はそのようなものではありません。異体同心の為の修行の場であることを思い、積極的に参加することがより多く功徳を積むことになります。共に励みましょう。
お盆のお経

八月十四日〜十五日
「追善供養」とは

日蓮大聖人は上野殿の後家尼に対して
「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし」(新編御書 三三八頁)
と仰せです。いかにもいかにもとは、どのようなことがあっても、ということですから、亡くなられた方の追善供養には、どのようなことがあっても心を尽くして励むべきです、という意味です。現代的な言い方にすれば、「亡くなった人を大事にしなさい」ということでしょうか。

 また、後家尼の子供である時光に与えた手紙には次のようなものもあります。
「子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ。郷一郷知るならば、半郷は父のため半郷は妻子眷属をやしなふべし」   (新編御書 一一二四頁)

 意味は、子であれば亡き親の来世を(心にかけて)追善供養をすべきです。所領が一郷あれば、半分は父の追善供養のために用い、残りの半分で妻子や眷属を養うようにするべきです、というものです。

 このように、日蓮大聖人は繰り返し「亡くなった人のことを大切にしなさい」と私たちに仰せです。思いますに、このことは、「感謝の気持ちを忘れてはなりません」と導いてくださる上からのお言葉であると拝するものです。即ち、現在の私たちがあるのも、両親をはじめ多くの先祖があってのことであり、その方々への感謝の念を持つことが人間としてのあり方の大切な部分である、ということです。

 私たちの先祖がこの地球上に誕生して五〇万年とも六〇万年ともいわれております。氷河期には寒さに震えながら、また自然災害ばかりではなく戦争も数え切れないほどありました。その間、懸命に遺伝子を守り伝えてくれた結果として、現在の私たちがあるのだ、と感じられるならば、自ずから感謝の念がわき上がってまいります。このことを学ぶために、亡くなった人を大切にすることを教えられたのです。命は今生限りではない、過去も未来もあり永遠なのだから、過去になった命を大切にすることは、現在の命を大切にすることに通じるのである、ということでもあります。

 「親孝行」や「報恩」などと言えば、封建社会の悪しき因習である、子供を親に隷属させる理論である、等とすぐにいいます。しかし、私たちの生命は連続するものであり、社会体制がどのようであれ、親子(遺伝子)の関係を基軸として、人間社会が成り立っていることは紛れもない事実です。したがって、「感謝の念」を持ち今日を生きることは、混沌とした時代にこそ、より重要なものなのです。

 亡き方を前にして、日蓮大聖人が仰せになる「感謝の気持ち」に思いを馳せるとき、「生かされている自分」に気づきます。そしてそれは、「亡き方」が、「亡き後」も大切な皆さまに、大切な教えを残されていることなのです。

 『刑部左衛門尉女房御返事』では、
「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給ひて候」(新編御書 一五〇六頁)
と仰せです。「南無妙法蓮華経」と法華経のお題目を唱えることが、亡き方のお喜び下さることであり、感謝の気持ちを表すことなのである、とのお言葉です。ご精進をお祈り申し上げます。
同心唱題行拝読御書 〜その五十五〜

平成十九年八月五日
『報恩抄』

日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ(新編御書 一〇三六頁)

 暑い中、広布唱題行にご参詣誠にご苦労様です。皆さまが佛乗寺の御本尊様の御前に足を運ばれ、世界中の人々の幸福を祈る修行には計り知れない功徳があります。自分のことで精一杯の世の中で、このような修行に励むことが出来るのは、過去世の深い因縁です。貴い因縁を大切にして更に前に進みましょう。

 私たちが唱える題目は、拝読の「報恩抄」で大聖人様が仰せのごとく、
「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」
の題目です。御文は「日本国」ですが、これは「全世界」の意です。ゆえに、大聖人様が末法の御本仏として御出現になり「南無妙法蓮華経」と唱え出されたお題目には、世界中の人々の誤った思想を正し、自己を中心とした執着の心を打ち破って真の平和社会を実現する大きな功徳があるのです。

 今、総本山では第十二回海外信徒夏期研修会が開催されています。十七カ国千五百名の同志が、八月三日から六日、三泊四日の日程で仏道修行に邁進されています。ブラジルやガーナ、トーゴなどから四十数時間もの長い時間をかけてはるばる大御本尊様のもとに足を運んでいます。この事からも、世界中の人々を幸福に導く功徳があることを実感します。

 日本の私たちも負けてはなりませんね。一生に一度登山がかなうかどうかという国外の人たちの境界と、数時間もあれば総本山に参詣することの出来る国内に住する人たちとの境界を比べてはいけないかも知れませんが、これも過去世の深い因縁によるものです。

 今、世界は闘諍堅固のまっただ中にあります。大きな地獄の釜が口を開いて待ちかまえています。そのような時だからなお、
「無間地獄の道をふさぎぬ」
と仰せのように、慈悲の折伏を行じてゆくことが肝心です。唱題は苦しみの中に堕ちないための修行です。つまり、本日の唱題行の一時間は幸福になる第一歩です。

 御法主日如上人が、いつも御指南下さいます。
「幸せになるために折伏をしましょう。自分だけの幸せを求める小乗の教えではなく、全世界の人々の幸せを実現してゆく日蓮大聖人の教えを広めることが結局自身の幸せにつながるのです」
と。暑い盛りですが、折伏の情熱で熱風をはね跳ばすことにより、自ずと元気が湧き上がってまいります。佛乗寺の皆さま、折伏は元気の根源です。ともどもに励みましょう。
今月の主な行事
9月1日 永代経
9月2日 広布唱題会
9月9日 御報恩御講
9月12日 御難会(竜口法難)
9月16日 支部総登山
9月20日〜26日 秋季彼岸会

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