第1回

立秋を迎えて
by くろさわ
テーマ:幼少時代の回想から、子供の頃と現在の日本の夏を比較し、
更に自らの学会時代と法華講となった今を比較する。

  秋きぬと 目にはさやかに見えねども
   風の音にぞ おどろかれぬる


 暦の上ではとうに立秋を過ぎているが、窓の外の様子は、草木が蒼々と茂り、蝉がミンミンと鳴き、盛夏そのもの。景色を見る限りでは、秋が訪れている様子はどこにも感じられない。

 しかし今、そっと目を閉じて、耳をすましてみると、風の音の中に、思いなしか秋がすぐそこまでさしせまっている気配を感じて、ハッとした。

 古今和歌集に出てくるこの歌は、おそらくこんな意味あいの歌だと思われます。
 どのような方が読まれた歌だったのか、名前がちょっと出て来ませんが、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。

 風の音の中に秋の気配を感じるというのですから、ただ耳が良いというのとはまた違う。昔の人はなんとも微妙な感性を持っていたものなのだなぁ、と、今更ながらに感銘致します。

 やがて、満山の蝉しぐれも、うら悲しい蜩の声に代わり、森の梢も黄ばみはじめ、いつのまにか、もうどこにも夏の気配は感じられなくなってしまう。・・・・こうした秋の気配を、誰よりも早く感じとられたこの歌は、気ぜわしい都会生活にどっぷり漬かった現代人が、なかなか詠める歌ではないと思います。


 私が子供の頃は、夏と言えば、よく夕涼みと称して外を出歩いたものです。最近では、地球温暖化の影響もあり夕方になってもあまり気温が下がらず、これが日本の夏なのかと疑いたくなるくらい紫外線も強く、また空気も汚く、アスファルトの照り返しの中、用事もないのに、とてもおもてを出歩きたくなる環境ではありません。

 涼むならエアコンをスイッチを入れればいいこと。夕涼みという言葉自体が、死語になりつつあるようです。

 しかし私が子供の頃は、夏と言えばクーラーなどという不健康な文明の利器はなく、(一般家庭にはほとんど普及しておらず)窓を開けて縁側で麦茶を飲んだり、スイカを食べたりするのが日課でした。

 夏の暑い盛りは、虫かごを腰に下げ、家の近所の多摩川の土手でよく遊んだものです。

 草をちぎり、土を蹴り、せせらぎに素足で水を跳ね、夕暮れの丘で星を数え、突然の雨を木陰に逃げ、シャツが泥んこになるまで駆け回り、秋が近づくにつれ、どんどん短くなる陽と追いかけっこで遊んだものです。

 一緒に遊んだ幼なじみの女の子は、麦わら帽子に薄紅色のリボンを結んでいました。
 私はその子のことが、ひそかに好きでした。
 でも恥ずかしくて、そんなことは言えませんでした。
 ある日、その子の前で、鉄橋を渡る列車の音に隠れて、大きな声で聞こえないように「好きだよ」と、言いました。 秋風の中で・・・。

 思えば、ちょうど今時分の季節だったような気がします。

 やがて大きな太陽が西の空へ沈む暮れ方、かすり模様の浴衣を着た母親と、いつも難しそうな顔で新聞を読んでいる父親は、私を盆踊りや花火大会や、近所のお祭りの縁日などに連れていってくれました。
 そして金魚すくいをやった帰り道は、よしずばりの茶店で団子を食べさせてくれたりしたものです。

 私は毎年蚊取線香の匂いをかぐと、この頃のことを思い出します。今ではリキッドタイプが主流になってしまいましたが、蚊取線香もまた、残しておきたい日本の夏の情緒だと思います。

 そんなこんなで、子供の頃は、夏だけでも大人になってからの数年分に匹敵するほど、時の経つのが長く、また充実していたものです。

 やがて大人になり、謗法の創価学会に籍を置いていた私は、子供の頃とは対照的な季節感のない生活を、ダラダラ延々と送ることになりました。

 夏は冷房の中にどっぷりと漬かり、冬は暖房をガンガン効かせ、昼も夜もない不規則な生活の中、カップラーメンとコンビニ弁当で飢えをしのぐだけの、不健康で目まぐるしい悪夢のような生活が何年か続きました。

 空気の色が変わろうと、風の匂いが変わろうと、気づくことのない毎日の暮らしでした。
 仕事仕事の毎日で、目先のことばかりを考え、あんなに忙しかったにもかかわらず、なぜか借金だけが増え、なにひとつ残ったものはなく、平成3年以降の7年間は、時間を誰かに盗まれてしまったような忘却の7年間でした。

 花を眺める暇もなく、雲の流れに目を向けるゆとりもなく、学会の謗法に気がつかないばかりか、今、自分自身のいる地獄の境涯に気づくこともなしに、ただただ走り続けた7年間。気が付くと、一人の青年は、髪が薄くなり、腹の出かかったおじさんになっていました。

 その間に、桜の花が7回咲き、あじさいの花が7回咲き、ひまわりの花が7回も咲いた筈なのに、私は少しも気づきませんでした。
 でも、たしかに7年が経過しました。
 危うくこのまま、人生をすべて時間泥棒に盗まれてしまうところでした。

 幸いに平成10年、学会の謗法に漸く気づかせて頂き、勧誡を受け、大石寺の大御本尊様にお目通りさせて頂きました。

 学会員の方も、気が付くなら今です。 今しかないのです。
 生きているうちなら、まだ間に合います。
 私は7年間の謗法罪障消滅を御祈念すべく、必至で修行に励みました。

 すると、驚いたことにそれ以降の私は、その前の学会時代より長く充実した時間を過ごすようになりました。

 心の中に、ゆとりができることにより、精神的な自由時間が増えました。また、実際に仕事が変わり、拘束時間も少なくなり、物理的な自由時間も増えました。

 何事にも感謝する気持ちを持てるようになりました。
 どこにも痛い場所がなく、飢えてひもじい思いもせず、身を切るような寒さもない中で、御本尊様の前に座れるということが、ものすごい贅沢なんだということが、少しずつ、わかって来ました。

 怒っている自分、苦しんでいる自分、楽しんでいる自分、悲しんでいる自分を、客観的に見据えることが出来るようになりました。

 そしてなにより、子供の頃のように、季節のうつろいを感じることが出来るようになりました。

 もうすぐ秋です。

 皆さんも、夏かぜなどをひかぬよう、お体にお気をつけください。

                                      平成14年8月10日

文責編集部