第10回

「真夏の氷」

by くろさわ
 今回は、平成10年に総本山で行われた夏期講習の思い出を書こうと思います。
 
 この夏期講習が、私にとって勧戒後初の登山となりました。

 余談ですが、この夏期講習と、就職の第一次選考試験の日付が重複していたため、両方を選択することが不可能で、私は夏期講習を優先選択致しました。勧戒後最初の登山に優先するものがあっては、御本尊様に申し訳ないと思ったのです。

 ところが就職試験の応募が多すぎで、1度では試験会場に収まらなく、2度に分けるということになり、私の第一次選考の日付が一週間遅れるという異例の現象が起き、夏期講習と就職試験の両方に出席することが出来、・・・しかもその試験に合格してしまったという、そんな記念すべき登山でした。

 さて、平成10年7月4日、私にとっては、暑さのことが忘れられない夏期講習になりました。しかし、それが今では、いい思い出になっております。と言いますのも、途中の休憩時間に食べたかき氷が、一生忘れられない思い出のかき氷になってしまったからなのです。

 宗務院の近くの門を出てすぐ食堂があり、皆さん、その前の自動販売機に群がり、「カルピスウォーター」や「ポカリスエット」を買い求めておりました。

 私はふと、その食堂の「氷」というのれんに目が行き、店の中に入って、1杯三百円の氷いちごを注文しました。

 そして暑さのせいもあり、この時の一杯の氷いちごの味に、いかなる文学的形容も思いあてはまらない程の、素晴らしい感動を得たのです。

 言うまでもなく、大聖人の時代には真夏にこんなに美味しいかき氷などは、なかったことでしょう。私はたいへんな幸せ者であると感じると同時に、はたして人類が真夏にかき氷を食べることが出来るようになったのは、いつ頃からなのか、そんなことまで、考え始めてしまったのです。

 平安時代中期の随筆、枕草子の「あてなるもの」には、

   削り氷に 甘葛入れて
   新しき かなまるに入れたる
   水晶の数珠・・・云々

 という一節があります。

 あてなるものというのは、優雅できらびやかなものという意味だそうです。削り氷(けずりひ)というのは、氷を刀で削ったもの。いわばかき氷です。甘葛(あまづる)というのは、蔦のような植物から採るエキス。職人さんがまる1日手間をかけて、やっとおちょこ1杯の甘葛がとれるというたいへん手間のかかるシロップでしたが、砂糖のない当時、貴重な甘味料だったそうです。そして、かなまるというのは、金属で出来た器の意。

 清少納言の時代、既にかき氷なるものが存在したということに、驚かされる一節です。

 当時、日陰に穴を掘った氷室という場所にその年の冬の氷を保管し、少しでも長く、出来ることなら夏まで保管しようと、人々は努力されていたのだそうです。

 源氏物語には、こうして保管した氷で夏に楽しんだり、氷水を飲むような記述があるそうです。

 まぁしかし、・・・ここで言う夏とは、おそらくはせいぜいでも4月くらいのことか、あるいは記述そのものが希望的幻想や神話のたぐいであったのではなかろうかと、私はそう思っています。

 いくら涼しい洞穴に冬の氷を保存したとはいえ、終日プラスの気温にさらせば、容赦なく溶け出すのが氷です。もしそんな氷を、富士山がまっ黒になるような7月8月に求めるとすれば、それは、大聖人の言葉を借りて恐縮ですが、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるくらいにはかない夢物語であったことでしょう。

 江戸時代に入ると、万年氷があることで知られる、富士山麓は鳴沢の氷穴から、なんと氷を飛脚に乗せて江戸まで運ばせたというのです。

 鳴沢から運び出された氷は、大勢の飛脚の手を渡り、超特急便として扱われましたが、そんな努力の甲斐も空しく、重さ30貫目ほどもあった大きな氷は、お江戸に到着する頃には、こぶし大にまで溶けてしまっていたそうです。

 そして、そのこぶし大になった氷を、大急ぎで刀で削って、器に入れて、甘葛をかけて、それを将軍様に献上されたのだそうです。

 真夏にかき氷を食べるということは、今では考えられないような、たいへんな手間と労力を要したことがわかります。これだけの手間を、現在の人件費に換算したら、はたして幾らになるでしょうか、値段などつけられようもないことでしょう。とてもではないですが、庶民の口に入るようなシロモノではなかったことだけは明白です。

 しかしどうやら、氷を運んでいたのは、健脚で丈夫な人たちばかりではなかったようで、囚人や病人が使われていることも多かったようです。

 爆走する大八車。
 それを引く死にかけの人夫。
 先頭を走る馬に乗ったお役人が、下々の者に向かって言い放つ。

 「どけどけどけぇい! お氷様のお通りだぁ!!
  道をあけぬ者は、その場で手打ちにいたすぞ!!」

 氷が夜の間泊まる、甲州街道・小仏宿では、氷が解けるからと、一切の火を禁じられる。

 そんな暗闇の中で、宿の客の一人が病気にかかる。

 「ひ、火を使わせてくだせえ! 灯がなくては、症状がわからねぇんです!」

 「ならんならん! この氷は将軍様に献上する大事な物なのだ!貴様らのような平民の為に、火の気を近付けさせる訳には行かぬわ!」

 というわけで、氷が一夜を明かす晩には、宿場町は大迷惑。また、氷を運んだ囚人や病人は、力尽きて道中でのたれ死んでいったのだそうです。・・・まぁ、このへんはどこまで本当の話なのかわかりませんが、・・・たしかそういう話を子供の頃、必殺仕事人か何かで見た記憶があります。

 そんなものをリファレンスに真面目な顔をして歴史を語ってしまっては、真剣にこれを読まれている皆様に申し訳ありませんが・・・。

 が、しかし、人々が真夏の氷を夢見る姿。江戸時代の話であるだけに、歴史は物語化され、美化され、そして江戸庶民のけなげな努力、涙ぐましいまでの情熱という、ともすれば美しい面だけがクローズアップされがちな話に、一方では多くの庶民が過酷な労働や迷惑を被っていたという現実があったという解釈を投じるのは、たとえ、いい加減な考証に基づいて脚色された「お話」ではあっても、どことなく現実に視点が置かれているようで、それなりに説得力があります。

 その後、明治の頃か大正か、いつ頃からか私たちは真夏の氷を手にするようになるわけですが、それがはたしていつ頃なのか。昭和ひと桁世代の父親に、子供の頃、真夏に氷があったかどうか聞いてみたところ、自宅に冷蔵庫は無かったけれど、氷屋に行けばあったという返事が返ってまいりました。父親の世代では、もう既に真夏の氷があったようです。それでは祖父母に聞こうと思いましたが、既に4人とも亡くなっていました。あーあ、まだ生きているうちにこういう質問をしておくべきだったなと、悔やまれました。

 ともあれ、私たちが真夏に氷を食べられるようになったのは、そんな遠い過去のことではないはずです。むしろつい最近、・・・おそらくはここ百年くらいのことなのではないかと思われます。

 さてさて、私は「う〜ん、こんなことまで考えて食べると、1杯三百円のかき氷も、またまた違った味に感じるものだなぁ〜」などと、ひとり感慨にふけり、平成十年の夏、真夏の氷いちごを口にしておりました。

 私たちはこの末法濁世で、真夏にかき氷を食べ、エアコンにあたり、飛行機や自動車や携帯電話まで手に入れて、それでもしあわせになれないのかと、気がついたら私はそんなことを考えておりました。

 しあわせって何だろうと、ふと思いました。

 私は、欠乏から充足へ変化する様子が、まさに俗に言うしあわせなのではないかと思っております。たぶん末法の凡夫は、その悪業ゆえ、充足され続けた状態の中にしあわせを感じることは困難なのでしょう。そういった意味では、欠乏と充足の繰り返しの中で、人は成長していくものなのでしょう。

 おそらく私も、大講堂にクーラーがガンガンに効いていたら、この一杯のかき氷に、ここまで深く感激することも、思い出に刻むこともなかったことだと思います。

 今年もまた、夏期講習の時期が近づいてまいりました。私もまた、天界系のしあわせに憧れながらも、ひたすら仏界系のしあわせを求め、初心を忘れずに仏道修行に励んで参ろうと思いますので、仏乗寺青年部の仲間も、全国の法華講の仲間も、一緒に頑張りましょう。


平成一六年五月

文責編集部