日蓮正宗佛乗寺法華講青年部 週刊向陽


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第291号 目次  平成20年11月21日

○ 総本山において日蓮大聖人御大会 奉修
○ 目師会 奉修
○ 日蓮大聖人佐渡配流をお偲びして(5)


○ 元弘 3年11月15日 日目上人様、京都天奏の途上、
                 美濃垂井にて御入滅
○ 文明 4年11月20日 総本山第十世日乗上人様御正当の日
○ 寛永 9年11月15日 敬台院、大石寺に御影堂を寄進
○ 明治23年11月20日 日盛上人、横須賀で身延一致派の
                 清水梁山を論破
○ 昭和18年11月21日 総本山第六十世日開上人様御正当の日
○ 昭和34年11月17日 総本山第六十五世日淳上人様御正当の日
総本山において日蓮大聖人御大会が奉修
11月20日・21日の両日、総本山において御本仏日蓮大聖人御大会が、御法主日如上人猊下大導師のもと厳粛に奉修されました。

御大会(ごたいえ)とは、御本仏宗祖日蓮大聖人様が、弘安5年10月13日、武州池上右衛門大夫宗仲の館において御入滅あそばされ、同時に、滅不滅の相、仏の生命の三世常住なることをお示しあそばされたことをお祝い申し上げる厳粛な儀式です。

また、『立正安国論』並びに御歴代上人の御申状の捧読がなされ、日蓮大聖人様の御精神である破邪顕正を実践すべく、広宣流布の大目標に向かって、更なる折伏弘教をお誓い申し上げる厳粛な大法要です。
目師会 奉修
11月15日、第三祖日目上人様の御正当会にあたり、恒例の目師会(もくしえ)が、厳粛に奉修されました。

元弘3年、それまで150年の間続いた鎌倉幕府が滅亡し、京都に天皇を中心とする公家一統の政治体制が敷かれることになりましたが、この時、日目上人様は既に74歳という御高齢にもかかわらず、御自ら天奏の決意を固められ、直弟子の日道上人様に唯授一人の血脈を相承され、日尊師と日郷師をお供として京都へと向かわれました。

しかし、美濃垂井に至って病床に伏され、日尊師・日郷師に天奏の完遂と日道上人への報告を遺言され、11月15日、御入滅されました。


日目上人申状

 日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。
 殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状
 副え進ず
 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文
 一通 先師日興上人申状 元徳二年
 一、 三時弘経の次第
 右、謹んで案内を検えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意に任すベし、三時の弘経は則ち如来の告勅なり、進退全く人力に非ず。
 抑、一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠怠懈せしむることなし。然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験なく、自他の反逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思い難し。倩微管を傾け聊か経文を披きたるに、仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり。就中我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず 三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む。然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せば、仏も慶び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐せられ、一乗妙典を崇敬せらるれば、金言しかも愆たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、玉体恙無うして宝祚の境え天地と疆まり無けん。日目先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶誠恐謹んで言す。

 元弘三年十一月     日目
日蓮大聖人佐渡配流をお偲びして(5)
塚原の配所
『妙法比丘尼御返事』
「佐渡国にありし時は、里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり。彼処に一間四面の堂あり。そらはいたまあわず、四壁はやぶれたり。雨はそとの如し、雪は内に積もる。仏はおはせず、筵・畳は一枚もなし。」

「塚原跡」のある目黒町の塚原から500メートルほど離れた下畑の地には、当時の佐渡守護所が置かれていた。

本間重連の屋敷も当然その付近にあったと考えられ、目黒町の塚原跡には「塚の腰」という古地名や、阿仏房の曾孫とされる藤九郎守綱の遺跡が目黒町の妙満寺にあること、又、守護所西にあった寺が下国府房と呼ばれたことなど、御書の記述に符合する点も多く、「里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」に符合する場所は目黒町のこの台地をおいてほかにない。

尚、現在、塚原の配所跡と称している根本寺は、天正15年(1587年)京都の妙覚寺の日典が建立したと『寺社境内案内帳』に記されているが、13年後の慶長5年(1600年)上杉氏の代官・河村彦左衛門による『慶長検地帳』に、根本寺の名も根本寺の前身である正教寺の名前も記載されていない。

また、『越佐史料』によれば、根本寺のある新穂郷は元応元年(1319年)の『日吉神社社領注進記』に記録され、日吉神社の社領で、守護、地頭不入の地であった。そうした社領に、死人や捨て場所や流人の配所が置かれるはずがなく、到底、塚原根本寺説を採ることはできない。



参照
大白法(平成19年6月1日号)
・日蓮大聖人正伝(217頁)
・日蓮大聖人御流謫・佐渡塚原(立正安国論正義顕揚750年記念局発行)

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