日蓮正宗佛乗寺法華講青年部 週刊向陽


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第313号 目次  平成21年4月24日

○ 日蓮大聖人佐渡配流をお偲びして(16)


○ 明治18年4月18日 日応上人様、小田原においてキリスト教徒と
                公開討論し、論破
日蓮大聖人佐渡配流をお偲びして(16)
■日蓮大聖人様、一谷へ移居

二月騒動」の予言敵中の後、日蓮大聖人は文永9年の初夏、佐渡塚原より石田の郷一谷へ移られました。

一谷での大聖人様の御生活は、『一谷入道女房御書』(御書八二六頁)に
「預かりたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに云云」
とあるように、新たに重連より監視を託された本間山城入道は強盛な念仏信者であったために、大聖人様に対して過酷な取り扱いをしたのであった。

一方、配所の宅主・一谷入道は同じく念仏者であったが、
「宅主内々心あて、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事何の世にかわすれん」
とあり、大聖人様に接するにつけ、次第に心を寄せるようになった。

一谷へ移られた頃には、大聖人様に随従する弟子達の数も増え、
「預かりよりあづかる食は少し。付ける弟子は多くありしに、僅かの飯の二口三口ありしを、或いはおしきに分け、或いは手に入れて食せし」
というように、食糧の欠乏にも困窮される御生活でした。


■日蓮大聖人様の御もとへ、門下の渡島

この頃、大聖人様を渇仰恋慕して、佐渡へ渡島する門下の動きが活発となり、文永9年4月、大聖人の御もとに四条金吾殿が参詣している。

大聖人様は、
「在俗の宮仕へ隙なき身に、此の経を信ずる事こそ希有なるに、山河を陵ぎ蒼海を経て、遥かに尋ね来たり給ひし志、香城に骨を砕き、雪嶺に身を投げし人々にも争でか劣り給ふべき」『四条金吾殿御返事』(御書一五〇一頁)
と、常啼菩薩や雪山童子にも劣らぬ求道の志である、と述べられている。

また、不安な世情の中において、大切な夫を大聖人様のもとに遣わした日眼女に対しても書状を送られ、大地よりも厚く虚空よりも高い深信の志である、と賞賛されている。


参照
日蓮大聖人正伝(239頁〜)
大聖人御在世の信徒たち(55頁〜)

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